出典:国土地理院

歴代天皇一覧表

ここには初代・神武天皇から第126代・今上天皇までの生誕・即位・退位・崩御などの情報を年表にまとめています。 AIによってデータベースを作成し、適宜、修正や最適化を実施しました。 歴代の天皇は明治政府によって確定作業が開始され、歴代天皇の基準が定まったのは大正時代末期のことです。 このとき示された基準によって、「歴代天皇は126代、124人」という現在の歴代天皇の形が確定しています。 新暦(グレゴリオ暦)が施行された1873年(明治6年)1月1日以前の日付については、各時代に用いられた旧暦の日付としています。 6世紀以前の天皇の情報は日本書紀に準ずるが、西暦は機械的に置き換えた年号となっています。

神話時代

神話しんわ時代における天皇は、てんの主宰神である天照大御神あまてらすおおみかみの直系の子孫として、神格化された絶対的な権威を持つ存在である。天孫てんそん瓊瓊杵尊ににぎのみこと日向ひむか高千穂たかちほの峰に降臨した「天孫降臨」を経て、その曾孫にあたる神武じんむ天皇が東征とうせいを開始したのである。日向から大和やまとを目指した一行は、瀬戸内せとうちを経て難波なにわに至り、金色のとびの助けを得て長髄彦ながすねひこを討ち果たした。神武天皇は橿原かしはらの地で初代天皇として即位し、ここに日本にっぽんの建国が成ったとされる。続く綏靖すいぜい天皇から開化かいか天皇までの「欠史八代けっしはちだい」を含め、この時期の天皇は長寿を誇り、神々と人間の中間に位置する司祭者しさいしゃとして描かれた。これらの物語は『古事記こじき』や『日本書紀にほんしょき』に記され、皇位の正統性と神聖性を裏付ける不変の根拠となったのである。

皇紀元年神武天皇元年辛酉BC660年

初代

神武天皇じんむてんのう

神日本磐余彦尊

彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊
玉依姫
媛蹈鞴五十鈴媛命
男系
生誕BC711213
即位神武天皇元年BC66011
退位神武天皇76年BC585311
崩御神武天皇76年BC58549
享年127
在位27463日(約75年)
元号-
畝傍山東北陵うねびやまのうしろのみささぎ(奈良県橿原市)
備考日本神話と『日本書紀』等に伝わる初代天皇である。日向ひゅうがから東方を目指す神武東征じんむとうせいを行い、幾多の苦難を乗り越えて大和やまとの地を平定した。畝傍うねび橿原かしはらの宮で即位し、建国の祖となったとされる。実在性には諸説あるが、皇統の起点として尊崇されている。
皇紀76年神武天皇76年丙子BC585年
皇紀76年神武天皇76年丙子BC585年
空位手研耳命の反逆による空位
皇紀80年綏靖天皇元年庚辰BC581年
皇紀80年綏靖天皇元年庚辰BC581年

第2代

綏靖天皇すいぜいてんのう

神渟名川耳尊

神武天皇
媛蹈鞴五十鈴媛命
五十鈴依媛命
男系
生誕神武天皇28年BC632--
即位綏靖天皇元年BC58118
退位安寧天皇元年BC549510
崩御安寧天皇元年BC549510
享年84
在位11812日(約32年)
元号-
桃花鳥田丘上陵つきだのおかのえのみささぎ(奈良県橿原市)
備考欠史八代
皇紀112年安寧天皇元年壬子BC549年
皇紀112年安寧天皇元年壬子BC549年

第3代

安寧天皇あんねいてんのう

磯城津彦玉手看尊

綏靖天皇
五十鈴依媛命
渟名底仲媛命
男系
生誕綏靖天皇14年BC567--
即位安寧天皇元年BC54913
退位安寧天皇39年BC511126
崩御安寧天皇39年BC511126
享年57
在位14218日(約38年)
元号-
畝傍山西南御陰井上陵うねびやまのまなみのみほといのえのみささぎ(奈良県橿原市)
備考欠史八代
皇紀150年安寧天皇39年庚寅BC511年
皇紀151年懿徳天皇元年辛卯BC510年

第4代

懿徳天皇いとくてんのう

大日本彦耜友尊

安寧天皇
渟名底仲媛命
天豊津媛命
男系
生誕綏靖天皇28年BC553--
即位懿徳天皇元年BC51024
退位懿徳天皇34年BC47798
崩御懿徳天皇34年BC47798
享年77
在位12270日(約33年)
元号-
畝傍山南繊沙渓上陵うねびやまのみなみのまさごたにのえのみささぎ(奈良県橿原市)
備考欠史八代
皇紀184年懿徳天皇34年甲子BC477年
皇紀184年懿徳天皇34年甲子BC477年
空位事詳不明
皇紀186年孝昭天皇元年丙寅BC475年
皇紀186年孝昭天皇元年丙寅BC475年

第5代

孝昭天皇こうしょうてんのう

観松彦香殖稲尊

懿徳天皇
天豊津媛命
世襲足媛
男系
生誕懿徳天皇4年BC506--
即位孝昭天皇元年BC47519
退位孝昭天皇83年BC39385
崩御孝昭天皇83年BC39385
享年114
在位30160日(約82年)
元号-
掖上博多山上陵わきがみのはかたやまのえのみささぎ(奈良県御所市)
備考欠史八代
皇紀268年孝昭天皇83年戊子BC393年
皇紀269年孝安天皇元年己丑BC392年

第6代

孝安天皇こうあんてんのう

日本足彦国押人尊

孝昭天皇
世襲足媛
押媛
男系
生誕孝昭天皇48年BC427--
即位孝安天皇元年BC39217
退位孝安天皇102年BC29119
崩御孝安天皇102年BC29119
享年137
在位36892日(約101年)
元号-
玉手丘上陵たまてのおかのえのみささぎ(奈良県御所市)
備考欠史八代
皇紀370年孝安天皇102年庚午BC291年
皇紀371年孝霊天皇元年辛未BC290年

第7代

孝霊天皇こうれいてんのう

大日本根子彦太瓊尊

孝安天皇
押媛
細媛命
男系
生誕孝安天皇50年BC342--
即位孝霊天皇元年BC290112
退位孝霊天皇76年BC21528
崩御孝霊天皇76年BC21528
享年128
在位27422日(約75年)
元号-
片丘馬坂陵かたおかのうまさかのみささぎ(奈良県王寺町)
備考欠史八代
皇紀446年孝霊天皇76年丙戌BC215年
皇紀447年孝元天皇元年丁亥BC214年

第8代

孝元天皇こうげんてんのう

大日本根子彦国牽尊

孝霊天皇
細媛命
鬱色謎命
男系
生誕孝安天皇95年BC297--
即位孝元天皇元年BC214114
退位孝元天皇57年BC15892
崩御孝元天皇57年BC15892
享年140
在位20685日(約56年)
元号-
剣池嶋上陵つるぎのいけのしまのえのみささぎ(奈良県橿原市)
備考欠史八代
皇紀503年孝元天皇57年癸未BC158年
皇紀504年開化天皇元年甲申BC157年

第9代

開化天皇かいかてんのう

稚日本根子彦大日日尊

孝元天皇
鬱色謎命
伊香色謎命
男系
生誕孝霊天皇53年BC237--
即位開化天皇元年BC15715
退位開化天皇60年BC9849
崩御開化天皇60年BC9849
享年140
在位21644日(約59年)
元号-
春日率川坂上陵かすがのいざかわのさかのえのみささぎ(奈良県奈良市)
備考欠史八代
皇紀563年開化天皇60年癸未BC98年

古墳時代

第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇、第12代景行天皇は纒向遺跡付近にて治世したと伝えられ、実在したならば3世紀後半から4世紀半ばと推定されるが、定かではない。古墳時代における天皇は、大和やまと地方を拠点とする有力豪族の連合政権である大和朝廷やまとちょうていの盟主「大王おおきみ」として君臨した。三世紀後半、箸墓はしはか古墳に象徴される巨大墳丘墓が築かれ始めると、各地の首長を服属させる形で広域的な統治権が確立されていった。五世紀には「倭の五王わのごおう」として中国の南朝へ朝貢を行い、安東将軍などの爵位を得ることで国際的な地位を高めた。特にと称された雄略ゆうりゃく天皇の代には、その権威が関東から九州にまで及んでいたことが、各地の鉄剣銘から確認できる。六世紀に入ると、継体けいたい天皇が越前えちぜんから迎えられて即位し、王朝の基盤を再編した。この時代の天皇は、武力や司祭的権威を背景に豪族を統制し、後の律令国家へと繋がる官僚制の萌芽を形成したのである。巨大な前方後円墳ぜんぽうこうえんふんは、まさにその強大な支配力の象徴であった。

皇紀564年崇神天皇元年甲申BC97年

第10代

崇神天皇すじんてんのう

御間城入彦五十瓊殖尊

開化天皇
伊香色謎命
御間城姫
男系
生誕開化天皇9年BC148--
即位崇神天皇元年BC97113
退位崇神天皇68年BC30125
崩御崇神天皇68年BC30125
享年119
在位24799日(約67年)
元号-
山辺道勾岡上陵やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ(奈良県天理市)
備考実在の可能性が高い最初の天皇とも称され、御間城入彦みまきいりびこの名を持つ。国内に疫病が蔓延した際、大物主神おおものぬしのかみを祀ることで混乱を収束させた。四道将軍しどうしょうぐんを各地に派遣して支配を広げ、「御肇國天皇はつくにしらすすめらみこと」と称えられた。
皇紀631年崇神天皇68年辛卯BC30年
皇紀632年垂仁天皇元年壬辰BC29年

第11代

垂仁天皇すいにんてんのう

活目入彦五十狭茅尊

崇神天皇
御間城姫
狭穂姫命
男系
生誕崇神天皇29年BC6911
即位垂仁天皇元年BC29111
退位垂仁天皇100年70714
崩御垂仁天皇100年70714
享年139
在位35980日(約98年)
元号-
菅原伏見東陵すがわらのふしみのひがしのみささぎ(奈良県奈良市)
備考農業の振興のために全国に多くの池や溝を掘らせた。また、野見宿禰のみのすくねの進言により、殉死の風習に代えて埴輪はにわを立てる制度を整えた。伊勢いせの地に天照大神あまてらすおおみかみを祀る斎宮さいぐうを創設したことでも知られる。
皇紀730年垂仁天皇100年庚午70年
皇紀731年景行天皇元年辛未71年

第12代

景行天皇けいこうてんのう

大足彦忍代別尊

垂仁天皇
日葉酢媛命
八坂入媛命
男系
生誕垂仁天皇42年13--
即位景行天皇元年7111
退位景行天皇60年130117
崩御景行天皇60年130117
享年118
在位21860日(約59年)
元号-
山辺道上陵やまのべのみちのえのみささぎ(奈良県天理市)
備考自ら筑紫つくしへ下向して熊襲くまそを平定するなど、地方の服属に尽力した。また、皇子の小碓命おうすのみこと、後の日本武尊やまとたけるのみことを東国へ遣わし、王権の支配域を大きく広げた。伝説的色彩が強いが、国家形成期の拡大を象徴する存在である。
皇紀790年景行天皇60年庚午130年
皇紀791年成務天皇元年辛未131年

第13代

成務天皇せいむてんのう

稚足彦尊

景行天皇
八坂入媛命

男系
生誕景行天皇13年84--
即位成務天皇元年13111
退位成務天皇60年190611
崩御成務天皇60年190611
享年107
在位21712日(約59年)
元号-
狭城盾列池後陵さきのたたなみのいけじりのみささぎ(奈良県奈良市)
備考諸国に国造くにのみやつこ県主あがたぬしを任命して行政組織を整備した。武内宿禰たけうちのすくね大臣おおおみとし、境界の画定や地方統治の基盤を固めた。先代までの軍事的拡大を継ぎ、内政の充実に努めた治世とされる。
皇紀850年成務天皇60年庚午190年
皇紀850年成務天皇60年庚午190年
空位事詳不明
皇紀852年仲哀天皇元年壬申192年
皇紀852年仲哀天皇元年壬申192年

第14代

仲哀天皇ちゅうあいてんのう

足仲彦尊

日本武尊
両道入姫命
神功皇后
男系
生誕成務天皇18年149--
即位仲哀天皇元年192111
退位仲哀天皇9年20026
崩御仲哀天皇9年20026
享年52
在位2949日(約8年)
元号-
恵我長野西陵えがのながののにしのみささぎ(大阪府藤井寺市)
備考日本武尊やまとたけるのみことを父に持ち、足仲彦たらしなかつひこの名で知られる。神功皇后じんぐうこうごうを伴い筑紫つくし香椎宮かしいのみやへ下向したが、熊襲くまそ征伐に際して神託を疑ったため、急逝したと伝えられる。その治世は、神の意志を巡る劇的な伝説に彩られている。
皇紀860年仲哀天皇9年庚辰200年
皇紀860年仲哀天皇9年庚辰200年

摂政

神功皇后じんぐうこうごう

息長帯比売命

息長宿禰王
葛城高額媛

皇族(摂政)
生誕成務天皇38年169--
即位仲哀天皇9年200102
退位仲哀天皇78年269417
崩御仲哀天皇78年269417
享年101
在位25035日(約68年)
元号-
狭城盾列池上陵さきのたたなみのいけのえのみささぎ(奈良県奈良市)
備考仲哀天皇ちゅうあいてんのうきさきであり、気長足姫おきながたらしひめの名を持つ。天皇の急逝後、身重みおもの体で新羅しらぎへ出兵する三韓征伐さんかんせいばつを指揮した。帰国後に筑紫つくし誉田別尊ほむたわけのみことを出産し、長年にわたり摂政せっしょうとして君臨した。武勇と信仰に優れた伝説的な女傑である。
皇紀929年仲哀天皇78年己丑269年
皇紀930年応神天皇元年庚寅270年

第15代

応神天皇おうじんてんのう

誉田別尊

仲哀天皇
神功皇后
仲姫命
男系
生誕仲哀天皇9年2001214
即位応神天皇元年27011
退位応神天皇41年310215
崩御応神天皇41年310215
享年111
在位14655日(約40年)
元号-
誉田御廟山古墳こんだごびょうやまこふん(大阪府羽曳野市)
備考神功皇后じんぐうこうごう御子みことして筑紫つくしで生まれた。大陸から阿知使主あちのおみら多くの帰化人を招き、文字や機織などの高度な技術を導入して文化の発展に尽力した。後に八幡大菩薩はちまんだいぼさつとして全国の八幡宮はちまんぐうに祀られ、武運の神として広く崇敬される。
皇紀970年応神天皇41年庚午310年
皇紀973年仁徳天皇元年癸酉313年

第16代

仁徳天皇にんとくてんのう

大鷦鷯尊

応神天皇
仲姫命
磐之媛命
男系
生誕仲哀天皇65年257--
即位仁徳天皇元年31313
退位仁徳天皇87年399116
崩御仁徳天皇87年399116
享年143
在位31425日(約86年)
元号-
百舌鳥耳原中陵もずのみみはらのなかのみささぎ(大阪府堺市)
備考難波なにわ高津宮たかつのみやに都を置いた。民のかまどから煙が上がらないのを見て租税を免除した聖帝ひじりのみかどの伝承で知られる。また、茨田堤まんだのつつみの築造など大規模な土木事業を推進した。百舌鳥もずの地に築かれた巨大な前方後円墳の被葬者とされる。
皇紀1059年仁徳天皇87年己亥399年
皇紀1060年履中天皇元年庚子400年

第17代

履中天皇りちゅうてんのう

大兄去来穂別尊

仁徳天皇
磐之媛命
黒媛
男系
生誕仁徳天皇23年336--
即位履中天皇元年40021
退位履中天皇6年405315
崩御履中天皇6年405315
享年70
在位1870日(約5年)
元号-
百舌鳥耳原南陵もずのみみはらのみなみのみささぎ(大阪府堺市)
備考仁徳天皇にんとくてんのうの第一皇子。即位前、弟の住吉仲皇子すみのえのなかつみこの反乱に遭うが、阿曇浜子あずみのはまこらの助力を得て難波なにわから大和やまとへ逃れ、これを平定した。磐余いわれ稚桜宮わかざくらのみやに都を定め、国史くにのふみを記す職を置くなど統治の充実に努めた。
皇紀1065年履中天皇6年乙巳405年
皇紀1066年反正天皇元年丙午406年

第18代

反正天皇はんぜいてんのう

瑞歯別尊

仁徳天皇
磐之媛命
津久良媛
男系
生誕仁徳天皇23年336--
即位反正天皇元年40611
退位反正天皇5年410123
崩御反正天皇5年410123
享年75
在位1484日(約4年)
元号-
百舌鳥耳原北陵もずのみみはらのきたのみささぎ(大阪府堺市)
備考仁徳天皇にんとくてんのうの第三皇子。容姿端麗で歯並びが美しかったと伝えられ、丹比たじひ柴垣宮しばがきのみやに都を定めた。兄の履中天皇りちゅうてんのうを襲った住吉仲皇子すみのえのなかつみこの反乱を平定し、治世は天下太平で五穀豊穣であったとされる。
皇紀1070年反正天皇5年庚戌410年
皇紀1070年反正天皇5年庚戌410年
空位雄朝津間稚子宿禰尊(允恭天皇)の固辞による空位。
皇紀1072年允恭天皇元年壬子412年
皇紀1072年允恭天皇元年壬子412年

第19代

允恭天皇いんぎょうてんのう

雄朝津間稚子宿禰尊

仁徳天皇
磐之媛命
忍坂大中姫
男系
生誕仁徳天皇63年376--
即位允恭天皇元年41212-
退位允恭天皇42年453114
崩御允恭天皇42年453114
享年78
在位14656日(約40年)
元号-
市野山古墳いちのやまこふん(大阪府藤井寺市)
備考仁徳天皇にんとくてんのうの第四皇子。長く病を患ったが、新羅しらぎの医師により治癒した。当時、氏姓うじかばねが混乱していたため、飛鳥あすか甘樫丘あまかしのおか盟神探湯くかたちを行い、秩序を再建した。遠飛鳥宮とおつあすかのみやに都を定め、内政の充実に努めた。
皇紀1113年允恭天皇42年癸巳453年
皇紀1113年允恭天皇42年癸巳453年

第20代

安康天皇あんこうてんのう

穴穂尊

允恭天皇
忍坂大中姫
中磯皇女
男系
生誕履中天皇元年401--
即位允恭天皇42年4531214
退位允恭天皇45年45689
崩御允恭天皇45年45689
享年56
在位970日(約2年)
元号-
菅原伏見西陵すがわらのふしみのにしのみささぎ(奈良県奈良市)
備考允恭天皇いんぎょうてんのうの第二皇子。石上いそのかみ穴穂宮あなほのみやに都を置いた。即位に際して有力な皇位継承者であった木梨軽皇子きなしのかるのみこを自害へ追い込んだ。後に、自らが殺害した大草香皇子おおくさかのみこの子である眉輪王まよわのおおきみによって暗殺された。
皇紀1116年允恭天皇45年丙申456年
皇紀1116年雄略天皇元年丙申456年

第21代

雄略天皇ゆうりゃくてんのう

大泊瀬幼武尊

允恭天皇
忍坂大中姫
草香幡梭皇女
男系
生誕允恭天皇7年41812-
即位雄略天皇元年4561113
退位雄略天皇24年47987
崩御雄略天皇24年47987
享年62
在位8303日(約22年)
元号-
丹比高鷲原陵たじひのたかわしはらのみささぎ(大阪府羽曳野市)
備考泊瀬はつせ列城宮なみきのみやに都を置いた。強力な専制君主として反対勢力を次々と粛清し、大王おおきみの権威を確立した。熊本くまもと江田船山古墳えたふなやまこふん埼玉さいたま稲荷山古墳いなりやまこふんから出土した鉄剣にその名が刻まれ、広大な勢力圏を証明している。
皇紀1139年雄略天皇24年己未479年
皇紀1140年清寧天皇元年庚申480年

第22代

清寧天皇せいねいてんのう

白髪武広国押稚日本根子尊

雄略天皇
葛城韓媛

男系
生誕允恭天皇32年444--
即位清寧天皇元年480115
退位清寧天皇5年484116
崩御清寧天皇5年484116
享年41
在位1463日(約4年)
元号-
河内坂門原陵かわちのさかどのはらのみささぎ(大阪府羽曳野市)
備考雄略天皇ゆうりゃくてんのうの第三皇子。生まれながらに髪が白かったため、父より霊力を認められ磐余いわれ甕栗宮みかくりのみやを都とした。御子みこがいなかったため、播磨はりまで発見された弘計をけ億計おけの兄弟を後継者に迎え、皇統の断絶を防いだ。
皇紀1144年清寧天皇5年甲子484年
皇紀1145年顕宗天皇元年乙丑485年

第23代

顕宗天皇けんぞうてんのう

弘計尊

市辺押磐皇子
荑媛
難波小野王女
男系
生誕允恭天皇38年450--
即位顕宗天皇元年48511
退位顕宗天皇3年487425
崩御顕宗天皇3年487425
享年38
在位845日(約2年)
元号-
傍丘磐坏丘南陵かたおかのいわつきのおかのみなみのみささぎ(奈良県香芝市)
備考市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの御子で、弘計をけの名を持つ。父が雄略天皇ゆうりゃくてんのうに殺されたため、兄の億計おけと共に播磨はりま縮見しじみの地に逃れ、身分を隠して牛飼いとして暮らした。後に清寧天皇せいねいてんのうに見い出され、近飛鳥ちかつあすか八釣宮やつりのみやで即位した。
皇紀1147年顕宗天皇3年丁卯487年
皇紀1148年仁賢天皇元年戊辰488年

第24代

仁賢天皇にんけんてんのう

億計尊

市辺押磐皇子
荑媛
春日大娘皇女
男系
生誕允恭天皇37年449--
即位仁賢天皇元年48815
退位仁賢天皇11年49888
崩御仁賢天皇11年49888
享年50
在位3869日(約10年)
元号-
埴生坂本陵はにゅうのさかもとのみささぎ(大阪府藤井寺市)
備考市辺押磐皇子いちのべのおしわのみこの第一皇子で、億計おけの名を持つ。弟の顕宗天皇けんぞうてんのう播磨はりまに隠れ住んでいたが、清寧天皇せいねいてんのうに迎えられた。石上いそのかみ広高宮ひろたかのみやに都を置き、雄略天皇ゆうりゃくてんのうの娘である春日大娘皇女かすがのおおいらつめのひめみこを皇后として、融和と安定に努めた。
皇紀1158年仁賢天皇11年戊寅498年
皇紀1159年武烈天皇元年己卯499年

第25代

武烈天皇ぶれつてんのう

小泊瀬稚鷦鷯尊

仁賢天皇
春日大娘皇女

男系
生誕仁賢天皇元年489--
即位武烈天皇元年49912-
退位武烈天皇8年506128
崩御武烈天皇8年506128
享年18
在位2565日(約7年)
元号-
傍丘磐坏丘北陵かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ(奈良県香芝市)
備考泊瀬はつせ列城宮なみきのみやを都とした。記紀ききには極めて残虐な行為を繰り返した暴君として記されているが、これは次代の継体天皇けいたいてんのうの即位を正当化するための作為との説も根強い。直系が途絶えた悲劇の王とされる。
皇紀1166年武烈天皇8年丙戌506年
皇紀1167年継体天皇元年丁亥507年

第26代

継体天皇けいたいてんのう

男大迹王

彦主人王
振媛
手白香皇女
男系
生誕允恭天皇38年450--
即位継体天皇元年50724
退位継体天皇25年53127
崩御継体天皇25年53147
享年82
在位8770日(約24年)
元号-
今城塚古墳いましろづかこふん(大阪府高槻市)
備考男大迹おおどの名を持ち、応神天皇おうじんてんのうの五世の孫とされる。武烈天皇ぶれつてんのうの急逝後、越前えちぜん三国みくにから大和やまとに迎えられた。樟葉くずはの宮で即位し、磐井いわいの乱を鎮圧して権力を確立した。王朝交替説あり。
皇紀1191年継体天皇25年辛亥531年
皇紀1191年継体天皇25年辛亥531年

第27代

安閑天皇あんかんてんのう

勾大兄皇子

継体天皇
目子媛
春日山田皇女
男系
生誕雄略天皇10年466--
即位継体天皇25年53127
退位宣化天皇元年5351217
崩御宣化天皇元年5351217
享年70
在位1775日(約4年)
元号-
高屋築山古墳たかやつきやまこふん(大阪府藤井寺市)
備考継体天皇けいたいてんのうの第一皇子。大和やまとまがり金箸宮かなはしのみやを都とした。全国各地に多数の屯倉みやけを設置し、国家の経済基盤を飛躍的に強化した。その治世は短かったが、くらの整備や農業振興に尽力し、民生を安定させた功績で知られる。
皇紀1195年宣化天皇元年乙卯535年
皇紀1195年宣化天皇元年乙卯535年

第28代

宣化天皇せんかてんのう

檜隈高田皇子

継体天皇
橘仲皇女
橘仲皇女
男系
生誕雄略天皇11年467--
即位宣化天皇元年535125
退位宣化天皇5年539210
崩御宣化天皇5年539210
享年73
在位1164日(約3年)
元号-
身狭桃花鳥坂上陵むさのつきさかのえのみささぎ(奈良県橿原市)
備考継体天皇けいたいてんのうの第二皇子。檜隈ひのくま廬入野宮いほりののみやを都とした。筑紫つくし官家みやけの整備を行い、食糧の重要性を説いて新羅しらぎへの備えを固めた。また、蘇我稲目そがのいなめ大臣おおおみに任じ、後の蘇我氏そがうじ台頭の端緒を開いた。
皇紀1199年宣化天皇5年己未539年

飛鳥時代

飛鳥時代における天皇は、それまでの豪族連合の首領という立場から、律令国家の中央集権的な君主へと変貌を遂げた。推古すいこ天皇の代には聖徳太子しょうとくたいしが摂政となり、冠位十二階や十七条憲法を通じて天皇中心の政治基盤が整えられた。その後、中大兄皇子なかのおおえのおうじらが蘇我そが氏を打倒した乙巳いっしの変を経て、孝徳v(こうとく天皇の難波宮なにわのみやにて大化たいかの改新が推進された。さらに壬申じんしんの乱に勝利した天武てんむ天皇は、初めて「天皇」の称号を用いたとされ、神格化された権威を確立した。続く持統じとう天皇の代には藤原京ふじわらきょうが造営され、大宝律令の制定により法に基づく統治体制が完成した。この時代の天皇は、仏教を鎮護国家の柱としつつ、中国のずいとうの制度を導入することで、の王から東アジアに比肩する帝国の統治者へとその性格を大きく進化させたのである。

皇紀1199年欽明天皇元年己未539年

第29代

欽明天皇きんめいてんのう

天国排開広庭尊

継体天皇
手白香皇女
石姫皇女
男系
生誕継体天皇2年509--
即位欽明天皇元年539125
退位欽明天皇33年571415
崩御欽明天皇33年571415
享年63
在位11455日(約31年)
元号-
檜隈坂合陵ひのくまのさかあいのみささぎ(奈良県明日香村)
備考継体天皇けいたいてんのうの第三皇子。磯城しきしま金刺宮かなさしのみやを都とした。百済くだら聖明王せいめいおうから仏像や経典を献上され、仏教公伝ぶっきょうこうでんの契機となった。蘇我稲目そがのいなめ物部尾輿もののべのおこしの間で崇仏すうぶつを巡る論争が始まり、古代史の大きな転換点となった。
皇紀1231年欽明天皇33年辛卯571年
皇紀1232年敏達天皇元年壬辰572年

第30代

敏達天皇びだつてんのう

渟中倉太珠敷尊

欽明天皇
石姫皇女
広姫
男系
生誕宣化天皇3年538--
即位敏達天皇元年57243
退位敏達天皇14年585815
崩御用明天皇元年585914
享年48
在位4883日(約13年)
元号-
河内磯長中尾陵かわちのしながのなかおのみささぎ(大阪府太子町)
備考欽明天皇きんめいてんのうの第二皇子。訳語田おさだ幸玉宮さきたまのみやを都とした。仏教受容を巡り、崇仏派すうぶつは蘇我馬子そがのうまこ廃仏派はいぶつは物部守屋もののべのもりやが激しく対立した。疫病えきびょうの流行を仏教のせいにした守屋による寺院破壊を許容したが、自らは古来の神道を重んじる姿勢を貫いた。
皇紀1245年敏達天皇14年乙巳585年
皇紀1245年用明天皇元年乙巳585年

第31代

用明天皇ようめいてんのう

橘豊日尊

欽明天皇
蘇我堅塩媛
穴穂部間人皇女
男系
生誕宣化天皇5年540--
即位用明天皇元年58595
退位用明天皇3年58749
崩御用明天皇3年58749
享年48
在位582日(約1年)
元号-
河内磯長原陵かわちのしながのはらのみささぎ(大阪府太子町)
備考欽明天皇きんめいてんのうの第四皇子。磐余いわれ池辺いけのべ並槻宮なみつきのみやを都とした。聖徳太子しょうとくたいしの父として知られ、即位の儀に際して三宝さんぼうを敬うことを宣言した。蘇我そが氏と物部もののべ氏の対立が激化する中、仏教受容を巡る動乱の序章を担った。
皇紀1247年用明天皇3年丁未587年
皇紀1247年崇峻天皇元年丁未587年

第32代

崇峻天皇すしゅんてんのう

泊瀬部皇子

欽明天皇
蘇我小姉君

男系
生誕欽明天皇14年553--
即位崇峻天皇元年58782
退位崇峻天皇6年592113
崩御崇峻天皇6年592113
享年40
在位1921日(約5年)
元号-
倉梯岡陵くらはしのおかのみささぎ(奈良県桜井市)
備考欽明天皇きんめいてんのうの第十二皇子。倉梯くらはし柴垣宮しばがきのみやを都とした。蘇我馬子そがのうまこに擁立されて即位したが、次第にその専横を疎んで対立を深めた。献上されたいのししを見て馬子殺害を口走ったことが露見し、東漢直駒やまとのあやのあたえこまによって暗殺された。
皇紀1252年崇峻天皇6年壬子592年
皇紀1252年推古天皇元年壬子592年

第33代

推古天皇すいこてんのう

額田部皇女

欽明天皇
蘇我堅塩媛

女帝
生誕欽明天皇15年554--
即位推古天皇元年592128
退位推古天皇37年628415
崩御推古天皇37年628415
享年75
在位12912日(約35年)
元号-
磯長山田陵しながのやまだのみささぎ(大阪府太子町)
備考日本初の女帝である。欽明天皇きんめいてんのうの皇女。豊浦とゆらの宮で即位し、後に小墾田おはりだの宮へ遷った。甥の厩戸皇子うまやどのおうじ、即ち聖徳太子しょうとくたいし摂政せっしょうとし、冠位十二階かんいじゅうにかい憲法十七条けんぽうじゅうななじょうを制定した。
皇紀1288年推古天皇37年戊子628年
皇紀1289年舒明天皇元年己丑629年

第34代

舒明天皇じょめいてんのう

田村皇子

押坂彦人大兄皇子
糠手姫皇女
皇極天皇
男系
生誕崇峻天皇6年593--
即位舒明天皇元年62914
退位舒明天皇13年6411117
崩御舒明天皇13年6411117
享年49
在位4701日(約12年)
元号-
段ノ塚古墳だんのつかこふん(奈良県桜井市)
備考飛鳥あすか岡本宮おかもとのみやを都とした。聖徳太子しょうとくたいし亡き後の朝廷で、蘇我蝦夷そがのえみしの推挙により即位した。初めて遣唐使けんとうしを派遣し、大陸の文化や制度の導入に努めた。その治世は、後の大化の改新たいかのかいしんへと続く政治的変動の過渡期にあたる。
皇紀1301年舒明天皇13年辛丑641年
皇紀1302年皇極天皇元年壬寅642年

第35代

皇極天皇こうぎょくてんのう

宝皇女

茅渟王
吉備姫王

女帝
生誕推古天皇2年594--
即位皇極天皇元年642115
退位孝徳天皇元年645614
崩御白雉12年661824
享年68
在位1247日(約3年)
元号-
越智岡上陵おちのおかのえのみささぎ(奈良県高取町)
備考第三十五代に数えられる女帝である。舒明天皇じょめいてんのうの皇后。飛鳥あすか板蓋宮いたぶきのみやを都とした。その治世下で中大兄皇子なかのおおえのおうじらによる乙巳いっしの変が勃発し、蘇我入鹿そがのいるかが滅ぼされた。直後に日本史上初めて譲位を行い、後には斉明天皇さいめいてんのうとして重祚ちょうそした。
皇紀1305年孝徳天皇元年乙巳645年
皇紀1305年孝徳天皇元年乙巳645年

第36代

孝徳天皇こうとくてんのう

軽皇子

茅渟王
吉備姫王
間人皇女
男系
生誕推古天皇4年596--
即位孝徳天皇元年645614
退位白雉5年6541124
崩御白雉5年6541124
享年59
在位3451日(約9年)
元号大化
大阪磯長陵おおさかのしながのみささぎ(大阪府太子町)
備考乙巳いっしの変の後に即位し、難波長柄豊碕宮なにわながらのとよさきのみやを都とした。中大兄皇子なかのおおえのおうじを皇太子、阿部内麻呂あべのうちまろ左大臣さだいじんに任じ、大化の改新たいかのかいしんを推進した。改新のみことのりを発し、公地公民こうちこうみんなどの新制度を確立した。
皇紀1314年白雉5年甲寅654年
皇紀1315年白雉6年乙卯655年

第37代

斉明天皇さいめいてんのう

宝皇女

茅渟王
吉備姫王

女帝
生誕推古天皇2年594--
即位白雉6年65513
退位白雉12年661824
崩御白雉12年661824
享年68
在位2426日(約6年)
元号-
越智岡上陵おちのおかのえのみささぎ(奈良県高取町)
備考皇極天皇こうぎょくてんのう重祚ちょうそした姿で、後飛鳥岡本宮のちのあすかのおかもとのみやを都とした。こしの国の阿倍比羅夫あべのひらふを遣わして蝦夷えみしを平定させた。百済くだら復興のため筑紫つくし朝倉あさくらに下向し、朝鮮半島への出兵を準備中に崩御した。大規模な土木事業を好み「狂心の渠たぶれごころのみぞ」と揶揄される水路も築いた。
皇紀1321年白雉12年辛酉661年
皇紀年

称制

中大兄皇子なかのおおえのおうじ

中大兄皇子

舒明天皇
皇極天皇
倭姫王
皇族(称制)
生誕推古天皇34年626--
即位--
退位白雉19年66813
崩御白雉23年67217
享年47
在位243651日(約667年)
元号-
山科陵やましなのみささぎ(京都府京都市山科区)
備考 中臣鎌足なかとみのかまたりと結んで乙巳いっしの変を断行し、蘇我入鹿そがのいるかを排斥した。飛鳥あすかを離れ、難波なにわ近江おうみ大津宮おおつのみやで政治を主導し、大化の改新たいかのかいしんを推進して中央集権化を図った。白村江はくすきのえの戦いでの大敗を経て、後に天智天皇てんじてんのうとして即位した。
661年の斉明天皇崩御後に即日中大兄皇子が称制したため暦が分かりにくくなっているが、斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。 (称制しょうせいとは、君主が死亡した後、次代の君主となる者(皇太子等)や先の君主の后が、即位せずに政務を執ること。)
皇紀1328年白雉19年戊辰668年
皇紀1328年白雉19年戊辰668年

第38代

天智天皇てんじてんのう

中大兄皇子

舒明天皇
皇極天皇
倭姫王
男系
生誕推古天皇34年626--
即位白雉19年66813
退位白雉23年67217
崩御白雉23年67217
享年47
在位1466日(約4年)
元号-
山科陵やましなのみささぎ(京都市山科区)
備考中大兄皇子なかのおおえのおうじとして乙巳いっしの変を主導し、大化たいかの改新を推進した。白村江はくそんこうの戦いでとう新羅しらぎ連合軍に大敗後、国防を強化し近江おうみ大津宮おおつのみやで即位した。日本初の戸籍である庚午年籍こうごねんじゃくを編纂し、近江令おうみりょうを定めて律令国家の礎を築いた。
皇紀1332年白雉23年壬申672年
皇紀1332年白雉23年壬申672年

第39代

弘文天皇こうぶんてんのう

大友皇子

天智天皇
伊賀采女宅子娘

男系
生誕大化3年648--
即位白雉23年67217
退位白雉23年672723
崩御白雉23年672723
享年25
在位199日(約0年)
元号-
長等山前陵ながらやまさきのみささぎ(滋賀県大津市)
備考天智天皇てんじてんのうの第一皇子。近江おうみ大津宮おおつのみやで政務を執ったが、父の没後に大海人皇子おおあまのおうじとの間で壬申じんしんの乱が勃発した。瀬田せた唐橋からはしの戦いで敗れ、山前やまさきの地で自害した。明治時代に正式に歴代天皇として追認された悲劇の若き君主である。
皇紀1332年白雉23年壬申672年
皇紀1333年白雉24年癸酉673年

第40代

天武天皇てんむてんのう

大海人皇子

舒明天皇
皇極天皇
持統天皇
男系
生誕舒明天皇2年631--
即位白雉24年673227
退位朱鳥元年686101
崩御朱鳥元年686101
享年56
在位4965日(約13年)
元号-
檜隈大内陵ひのくまのおおうちのみささぎ(奈良県明日香村)
備考天智天皇てんじてんのうの弟。壬申じんしんの乱で弘文天皇こうぶんてんのうを破り、飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらのみやで即位した。八色の姓やくさのかばねを定め、律令りつりょうの編纂や『古事記こじき』の編纂を命じて中央集権化を極限まで進めた。天皇の称号や「日本にっぽん」の国号を確立した始祖的な存在である。
皇紀1346年朱鳥元年丙戌686年
皇紀1350年朱鳥5年庚寅690年

第41代

持統天皇じとうてんのう

鸕野讃良皇女

天智天皇
蘇我遠智娘
天武天皇
女帝
生誕皇極天皇3年645--
即位朱鳥5年69011
退位朱鳥12年69781
崩御大宝3年703113
享年59
在位2770日(約7年)
元号-
檜隈大内陵ひのくまのおおうちのみささぎ(奈良県明日香村)
備考夫である天武天皇てんむてんのうの遺志を継ぎ、飛鳥浄御原令あすかのきよみはらりょうを施行した。藤原京ふじわらきょうを創設し、庚寅年籍こういんねんじゃくを編纂して中央集権体制を確立した。孫の文武天皇もんむてんのうに譲位し、日本史上初めて太上天皇だいじょうてんのうとなった。
皇紀1357年朱鳥12年丁酉697年
皇紀1357年朱鳥12年丁酉697年

第42代

文武天皇もんむてんのう

軽皇子

草壁皇子
阿閉皇女

男系
生誕白雉33年683--
即位朱鳥12年69781
退位慶雲4年707615
崩御慶雲4年707615
享年25
在位3605日(約9年)
元号大宝
檜隈安古岡上陵ひのくまあこのおかのえのみささぎ(奈良県明日香村)
備考持統天皇じとうてんのうから譲位を受け、藤原京ふじわらきょうで即位した。刑部親王おさかべしんのう藤原不比等ふじわらのふひとに命じ、大宝律令たいほうりつりょうを完成させて律令国家の骨格を築いた。若くして崩御したが、中央集権体制を完成させた英明な君主とされる。
皇紀1367年慶雲4年丁未707年

奈良時代

奈良時代における天皇は、律令制に基づく中央集権国家の最高権威として、平城京へいじょうきょうを拠点に政治と祭祀を司った。元明げんめい天皇による遷都以降、天皇は神の子孫としての神聖性を強調しつつ、戸籍の整備や班田収授法はんでんしゅうじゅのほうを通じて全国の土地と人民を直接支配することを目指した。特に聖武しょうむ天皇の代には、疫病や政情不安を鎮めるために仏教による鎮護国家の思想が重んじられ、東大寺とうだいじの大仏造立が進められた。また、この時期には女性天皇も多く即位し、元正げんしょう天皇や称徳しょうとく天皇が皇位の安定や継承において重要な役割を果たした。しかし、道鏡どうきょうのような僧侶の政界進出が皇位継承の危機を招くなどの混乱も生じた。時代後半、光仁こうにん天皇の即位により天武系の血統から天智てんじ系へと皇統が移り、次の平安時代へ繋がる政治再建の歩みが始まったのである。

皇紀1367年慶雲4年丁未707年

第43代

元明天皇げんめいてんのう

阿閉皇女

天智天皇
蘇我姪娘

女帝
生誕白雉11年661--
即位慶雲4年707717
退位和銅8年71592
崩御養老5年721127
享年61
在位2970日(約8年)
元号和銅
奈保山東陵なほやまのひがしのみささぎ(奈良県奈良市)
備考藤原京ふじわらきょうから平城京へいじょうきょうへの遷都を行い、奈良なら時代の幕を開いた。和同開珎わどうかいちんを鋳造して通貨制度を整え、『古事記こじき』の完成や『風土記ふどき』の編纂を命じた。律令国家の体裁を文化面からも固めた賢明な君主である。
皇紀1375年和銅8年乙卯715年
皇紀1375年和銅8年乙卯715年

第44代

元正天皇げんしょうてんのう

氷高皇女

草壁皇子
元明天皇

女帝
生誕白雉30年680--
即位和銅8年71592
退位神亀元年72424
崩御天平20年748522
享年69
在位3078日(約8年)
元号養老
奈保山西陵なほやまのにしのみささぎ(奈良県奈良市)
備考平城京へいじょうきょうで即位し、母から譲位を受けて政務を執った。その治世下で『日本書紀にほんしょき』が完成し、三世一身さんぜいっしんの法を制定して開墾を奨励した。独身で即位した初めての女帝であり、律令国家の安定と発展を支えた。
皇紀1384年神亀元年甲子724年
皇紀1384年神亀元年甲子724年

第45代

聖武天皇しょうむてんのう

首皇子

文武天皇
藤原宮子
光明皇后
男系
生誕朱鳥15年701--
即位神亀元年72424
退位天平勝宝元年74972
崩御天平勝宝8年75664
享年56
在位9281日(約25年)
元号天平
佐保山南陵さほやまのみなみのみささぎ(奈良県奈良市)
備考文武天皇もんむてんのうの第一皇子で、おびとの名を持つ。平城京へいじょうきょうを拠点とし、藤原広嗣ふじわらのひろつぐの乱や疫病の流行に苦しむ中、仏教による鎮護国家ちんごこっかを目指した。東大寺とうだいじの大仏造立を命じ、国分寺こくぶんじを各地に建立した。天平てんぴょう文化を花開かせた敬虔な君主である。
皇紀1409年天平勝宝元年己丑749年
皇紀1409年天平勝宝元年己丑749年

第46代

孝謙天皇こうけんてんのう

阿倍内親王

聖武天皇
光明皇后

女帝
生誕養老元年718--
即位天平勝宝元年74972
退位天平宝字2年75881
崩御神護景雲4年770828
享年53
在位3318日(約9年)
元号天平勝宝
高野陵たかののみささぎ(奈良県奈良市)
備考平城京へいじょうきょうで即位し、光明皇太后こうみょうこうたいごうの信任を得て政務を執った。後に淳仁天皇じゅんにんてんのうへ譲位したが、恵美押勝えみのおしかつの乱を経て称徳天皇しょうとくてんのうとして重祚ちょうそした。仏教を深く信奉し、道鏡どうきょうを重用して僧正そうじょうに任じた波乱の生涯である。
皇紀1418年天平宝字2年戊戌758年
皇紀1418年天平宝字2年戊戌758年

第47代

淳仁天皇じゅんにんてんのう

大炊王

舎人親王


男系
生誕天平4年733--
即位天平宝字2年75881
退位天平宝字8年764109
崩御天平神護元年7651110
享年33
在位2262日(約6年)
元号天平宝字
淡路陵あわじのみささぎ(兵庫県淡路市)
備考平城京へいじょうきょうで即位し、藤原仲麻呂ふじわらのなかまろを重用して恵美押勝えみのおしかつの名を授けた。しかし、孝謙上皇こうけんじょうこうとの対立が深まり、仲麻呂の乱に連座して廃位された。淡路あわじに流された悲劇の廃帝はいたいであり、明治時代に正式に諡号しごうが贈られた。
皇紀1424年天平宝字8年甲辰764年
皇紀1424年天平宝字8年甲辰764年

第48代

称徳天皇しょうとくてんのう

阿倍内親王

聖武天皇
光明皇后

女帝
生誕養老元年718--
即位天平宝字8年764109
退位神護景雲4年770828
崩御神護景雲4年770828
享年53
在位2150日(約5年)
元号天平神護
高野陵たかののみささぎ(奈良県奈良市)
備考孝謙天皇こうけんてんのう重祚ちょうそした姿。平城京へいじょうきょうを拠点とし、僧侶の道鏡どうきょう法王ほうおうに任じて仏教政治を強力に推進した。西大寺さいだいじの建立や百万塔ひゃくまんとうの製作を行い、宇佐うさ八幡宮の神託を巡る皇位継承騒動に直面した。生涯独身を貫き、その崩御によって天武てんむ系の直系は途絶えた。
皇紀1430年神護景雲4年庚戌770年
皇紀1430年宝亀元年庚戌770年

第49代

光仁天皇こうにんてんのう

白壁王

志貴親王
紀橡姫
井上内親王
男系
生誕和銅2年7091118
即位宝亀元年770101
退位天応元年78143
崩御天応2年782111
享年74
在位3838日(約10年)
元号宝亀
田原西陵たはらのにしのみささぎ(奈良県奈良市)
備考天智天皇てんじてんのうの孫。称徳天皇しょうとくてんのうの崩御後、藤原百川ふじわらのももかわらの擁立により、六十二歳の高齢で平城京へいじょうきょうにて即位した。天武てんむ系から天智系への皇統転換を成し遂げ、官人の削減や軍団の廃止など、肥大化した律令体制の緊縮財政と再建に努めた。
皇紀1441年天応元年辛酉781年

平安時代

平安時代における天皇は、律令制の理念を継承しつつ、時代とともにその政治的形態を柔軟に変容させた。桓武かんむ天皇による平安京へいあんきょうへの遷都後、当初は強大な親政が行われたが、次第に藤原ふじわら氏が外戚として権力を握る摂関せっかん政治が確立した。この時期、天皇は儀式や祭祀を司る象徴的な存在としての性格を強め、国風こくふう文化の発展を支える文化的中心となった。しかし、十一世紀後半に即位した白河しらかわ天皇は、幼少の天皇を立てて自らは上皇じょうこうとして院庁いんのちょうで実権を振るう院政いんせいを開始した。これにより天皇・上皇は、北面ほくめんの武士を組織するなどして摂関家や寺社勢力に対抗し、専制的な支配を再び強化したのである。時代の終焉とともに保元ほうげんの乱などの内乱を経て、政治の実権が平清盛たいらのきよもりら武士の手に移る中でも、天皇は国家の正統性を付与する唯一無二の権威として君臨し続けたのである。

皇紀1441年天応元年辛酉781年

第50代

桓武天皇かんむてんのう

山部親王

光仁天皇
高野新笠
藤原乙牟漏
男系
生誕天平8年737--
即位天応元年78143
退位延暦25年80649
崩御延暦25年80649
享年70
在位9138日(約25年)
元号延暦
柏原陵かしわばらのみささぎ(京都市伏見区)
備考平城京へいじょうきょうを離れ、長岡京ながおかきょうを経て平安京へいあんきょうへの遷都を断行し、平安時代の礎を築いた。坂上田村麻呂さかのうえのたむらまろ征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任じて蝦夷えみしを平定し、軍事と造作の二大事業を推進した。
皇紀1466年延暦25年丙戌806年
皇紀1466年延暦25年丙戌806年

第51代

平城天皇へいぜいてんのう

安殿親王

桓武天皇
藤原乙牟漏
藤原帯子
男系
生誕宝亀5年774925
即位延暦25年80649
退位大同4年80941
崩御天長元年82487
享年51
在位1089日(約2年)
元号大同
楊梅陵やまもものみささぎ(奈良県奈良市)
備考平城京へいじょうきょうを深く愛し、観察使かんさつしの設置など行政改革を断行した。病により嵯峨天皇さがてんのうへ譲位したが、後に尚侍ないしのかみ藤原薬子ふじわらのくすこらと平城京への再遷都を企て、薬子くすこの変を惹起した。
皇紀1469年大同4年己丑809年
皇紀1469年大同4年己丑809年

第52代

嵯峨天皇さがてんのう

神野親王

桓武天皇
藤原乙牟漏
橘嘉智子
男系
生誕延暦5年786103
即位大同4年80941
退位弘仁14年823416
崩御承和9年842824
享年57
在位5129日(約14年)
元号弘仁
嵯峨山上陵さがのやまのえのみささぎ(京都市右京区)
備考平安京へいあんきょうを拠点とし、薬子の変くすこのへんを鎮圧して皇権を確立した。蔵人頭くろうどのとう検非違使けびいしを創設して統治機構を整備し、弘仁こうにん文化を花開かせた。空海くうかいを重用し、三筆さんぴつの一人に数えられる能書家としても名高い。
皇紀1483年弘仁14年癸卯823年
皇紀1483年弘仁14年癸卯823年

第53代

淳和天皇じゅんなてんのう

大伴親王

桓武天皇
藤原旅子
正子内親王
男系
生誕延暦5年78658
即位弘仁14年823416
退位天長10年833322
崩御承和7年840611
享年55
在位3629日(約9年)
元号天長
大原野西嶺上陵おおはらののにしのみねのえのみささぎ(京都市西京区)
備考平安京へいあんきょうで即位し、兄の嵯峨天皇さがてんのうによる政治路線を継承した。りょうの官釈である『令義解りょうのぎげ』を撰修させ、法制の整備に尽力した。また、良田りょうでん公営田くえいでんとして管理させるなど、地方財政の再建に努めた。
皇紀1493年天長10年癸丑833年
皇紀1493年天長10年癸丑833年

第54代

仁明天皇にんみょうてんのう

正良親王

嵯峨天皇
橘嘉智子
藤原順子
男系
生誕弘仁元年8101025
即位天長10年833322
退位嘉祥3年85056
崩御嘉祥3年85056
享年41
在位6255日(約17年)
元号承和
深草陵ふかくさのみささぎ(京都市伏見区)
備考平安京へいあんきょうを拠点とし、承和じょうわの変を経て藤原良房ふじわらのよしふさと結び、外戚関係を強化した。学問や音楽を深く愛し、とうの文化を積極的に享受した。また、富士山ふじさんの噴火などの天災に際し、神事や祈祷を通じて国家の安泰を願った。
皇紀1510年嘉祥3年庚午850年
皇紀1510年嘉祥3年庚午850年

第55代

文徳天皇もんとくてんのう

道康親王

仁明天皇
藤原順子
藤原明子
男系
生誕天長3年827--
即位嘉祥3年85056
退位天安2年858927
崩御天安2年858927
享年32
在位3067日(約8年)
元号天安
田邑陵たむらのみささぎ(京都市伏見区)
備考平安京へいあんきょうを拠点とし、藤原良房ふじわらのよしふさの娘である明子あきらけいこ女御にょうごとした。第一皇子の惟喬親王これたかしんのうを愛したが、良房の圧力を受けて、明子との子である惟仁親王これひとしんのう立太子りったいしさせた。藤原氏ふじわらうじの権力拡大に直面した治世である。
皇紀1518年天安2年戊寅858年
皇紀1518年天安2年戊寅858年

第56代

清和天皇せいわてんのう

惟仁親王

文徳天皇
藤原明子
藤原高子
男系
生誕嘉祥3年850510
即位天安2年858117
退位貞観18年8761129
崩御元慶5年88117
享年32
在位6598日(約18年)
元号貞観
水尾山陵みずのおやまのみささぎ(京都市右京区)
備考平安京へいあんきょうでわずか九歳で即位し、外祖父の藤原良房ふじわらのよしふさが臣下として初めて摂政せっしょうに就任した。応天門おうてんもんの変を経て藤原氏ふじわらうじの権力基盤が固まり、摂関政治せっかんせいじの端緒となった。後世に武家の棟梁となる清和源氏せいわげんじの始祖としても仰がれている。
皇紀1536年貞観18年丙申876年
皇紀1536年貞観18年丙申876年

第57代

陽成天皇ようぜいてんのう

貞明親王

清和天皇
藤原高子

男系
生誕貞観11年86912
即位貞観18年8761129
退位元慶8年88424
崩御天暦3年9491023
享年81
在位2624日(約7年)
元号元慶
神楽岡東陵かぐらがおかのひがしのみささぎ(京都市左京区)
備考平安京へいあんきょうにてわずか九歳で即位し、伯父の藤原基経ふじわらのもとつね摂政せっしょうとして実権を握った。宮中での素行不良や不可解な殺人事件を理由に、基経によって廃位に追い込まれたとされる。退位後は八十歳を超える長寿を全うし、歌人としても名を残した。
皇紀1544年元慶8年甲辰884年
皇紀1544年元慶8年甲辰884年

第58代

光孝天皇こうこうてんのう

時康親王

仁明天皇
藤原沢子

男系
生誕天長6年830--
即位元慶8年88424
退位仁和3年887826
崩御仁和3年887826
享年58
在位1300日(約3年)
元号仁和
後田邑陵のちのたむらのみささぎ(京都市伏見区)
備考陽成天皇ようぜいてんのうの廃位を受け、藤原基経ふじわらのもとつねの擁立により五十五歳で即位した。政治の全権を基経に委ね、阿衡あこうの紛議の端緒となった。和歌や鷹狩たかがりを好む風流人で、百人一首ひゃくにんいっしゅの「君がため」の歌でも親しまれている。
皇紀1547年仁和3年丁未887年
皇紀1547年仁和3年丁未887年

第59代

宇多天皇うだてんのう

定省親王

光孝天皇
班子女王
藤原温子
男系
生誕貞観9年867610
即位仁和3年887826
退位寛平9年89773
崩御承平元年93193
享年65
在位3600日(約9年)
元号寛平
大内山陵おおうちやまのみささぎ(京都市右京区)
備考臣籍降下しんせきこうかして源氏げんじを名乗った後に皇籍復帰し、平安京へいあんきょうで即位した。藤原基経ふじわらのもとつねとの阿衡あこうの紛議を経て、親政を開始すると菅原道真すがわらのみちざねを重用した。寛平かんぴょうの治と呼ばれる理想的な政治を行い、遣唐使けんとうしの廃止を決定した。
皇紀1557年寛平9年丁巳897年
皇紀1557年寛平9年丁巳897年

第60代

醍醐天皇だいごてんのう

敦仁親王

宇多天皇
藤原胤子
藤原穏子
男系
生誕元慶9年88526
即位寛平9年89773
退位延長8年9301023
崩御延長8年9301023
享年46
在位12165日(約33年)
元号延喜
後山科陵のちのやましなのみささぎ(京都市伏見区)
備考平安京へいあんきょうを拠点とし、藤原時平ふじわらのときひら菅原道真すがわらのみちざねを重用した。昌泰しょうたいの変で道真を左遷したが、その後は親政を行い「延喜えんぎの治」と称えられる盛時を築いた。『古今和歌集こきんわかしゅう』の編纂を命じ、律令体制の再建を図るなど文化・政治の両面で功績を残した。
皇紀1590年延長8年庚寅930年
皇紀1590年延長8年庚寅930年

第61代

朱雀天皇すざくてんのう

寛明親王

醍醐天皇
藤原穏子
藤原懐子
男系
生誕延長元年92397
即位延長8年9301023
退位天慶9年946523
崩御天暦6年95296
享年30
在位5692日(約15年)
元号承平
醍醐北陵だいごのきたのみささぎ(京都市伏見区)
備考平安京へいあんきょうにて八歳で即位し、叔父の藤原忠平ふじわらのただひら摂政せっしょうとして実権を握った。その治世には平将門たいらのまさかどの乱や藤原純友ふじわらのすみともの乱、いわゆる承平じょうへい天慶てんぎょうの乱が勃発し、地方武士の台頭が顕著となった。
皇紀1606年天慶9年丙午946年
皇紀1606年天慶9年丙午946年

第62代

村上天皇むらかみてんのう

成明親王

醍醐天皇
藤原穏子
安子内親王
男系
生誕延長4年926714
即位天慶9年946523
退位康保4年96775
崩御康保4年96775
享年42
在位7714日(約21年)
元号天暦
村上陵むらかみのみささぎ(京都市伏見区)
備考平安京へいあんきょうを拠点とし、藤原忠平ふじわらのただひらの死後は摂政せっしょう関白かんぱくを置かず、父の治世にならって親政を行った。乾元大宝けんげんたいほうを鋳造し、『後撰和歌集ごせんわかしゅう』の編纂を命じるなど、天暦てんりゃくの治と呼ばれる理想的な統治と文化の振興に努めた。
皇紀1627年康保4年丁卯967年
皇紀1627年康保4年丁卯967年

第63代

冷泉天皇れいぜいてんのう

憲平親王

村上天皇
藤原安子
昌子内親王
男系
生誕天暦4年950612
即位康保4年96775
退位安和2年969813
崩御寛弘8年10111121
享年62
在位771日(約2年)
元号安和
桜本陵さくらもとのみささぎ(京都市北区)
備考平安京へいあんきょうで十八歳で即位し、藤原実頼ふじわらのさねより関白かんぱくとして補佐した。精神的な疾患による奇行が伝えられ、在位わずか二年で円融天皇えんゆうてんのうに譲位した。その治世には安和あんなの変が起き、藤原氏ふじわらうじによる他氏排斥が決定的なものとなった。
皇紀1629年安和2年己巳969年
皇紀1629年安和2年己巳969年

第64代

円融天皇えんゆうてんのう

守平親王

村上天皇
藤原安子
藤原媓子
男系
生誕天徳3年959412
即位安和2年969813
退位永観2年984827
崩御正暦2年99131
享年33
在位5494日(約15年)
元号天元
後村上陵のちのむらかみのみささぎ(京都市右京区)
備考村上天皇むらかみてんのうの第五皇子。平安京へいあんきょうで即位し、藤原兼通ふじわらのかねみち兼家かねいえ藤原氏ふじわらうじの内紛に翻弄された。内裏だいりの焼失や強訴ごうそが相次ぐ多難な治世であったが、譲位後には円融寺えんゆうじを建立して仏道に帰依した。
皇紀1644年永観2年甲申984年
皇紀1644年永観2年甲申984年

第65代

花山天皇かざんてんのう

師貞親王

冷泉天皇
藤原懐子
藤原忯子
男系
生誕安和元年9681129
即位永観2年984827
退位寛和2年986623
崩御寛弘5年1008317
享年41
在位666日(約1年)
元号寛和
紙屋川上陵かみやがわのえのみささぎ(京都市北区)
備考平安京へいあんきょうで即位し、義叔父の藤原義懐ふじわらのよしちからと物価の統制や荘園の整理など進歩的な改革を試みた。しかし、藤原兼家ふじわらのかねいえの策略による「寛和かんなの変」で出家・退位に追い込まれた。退位後は西国三十三所さいごくさんじゅうさんしょの巡礼を再興した。
皇紀1646年寛和2年丙戌986年
皇紀1646年寛和2年丙戌986年

第66代

一条天皇いちじょうてんのう

懐仁親王

円融天皇
藤原詮子
藤原定子・藤原彰子
男系
生誕天元3年98075
即位寛和2年986623
退位寛弘8年1011613
崩御寛弘8年1011725
享年32
在位9121日(約24年)
元号長徳
円融寺北陵えんゆうじのきたのみささぎ(京都市右京区)
備考平安京へいあんきょうで七歳にて即位し、外祖父の藤原兼家ふじわらのかねいえ道長みちなが摂政せっしょう関白かんぱくとして権勢を振るった。きさき定子ていし彰子しょうしを迎え、清少納言せいしょうなごん紫式部むらさきしきぶが活躍する国風こくふう文化の最盛期を築いた。
皇紀1671年寛弘8年辛亥1011年
皇紀1671年寛弘8年辛亥1011年

第67代

三条天皇さんじょうてんのう

居貞親王

冷泉天皇
藤原超子
藤原娍子
男系
生誕天延4年97625
即位寛弘8年1011613
退位長和5年1016129
崩御寛仁元年101765
享年42
在位1692日(約4年)
元号長和
北山陵きたやまのみささぎ(京都市北区)
備考平安京へいあんきょうで三十六歳の高齢にて即位したが、権勢を誇る外叔父の藤原道長ふじわらのみちながと激しく対立した。眼病を患う中、道長から執拗な譲位の圧力を受け、悲憤のうちに後一条天皇ごいちじょうてんのうへ位を譲った。
皇紀1676年長和5年丙辰1016年
皇紀1676年長和5年丙辰1016年

第68代

後一条天皇ごいちじょうてんのう

敦成親王

一条天皇
藤原彰子
威子内親王
男系
生誕寛弘5年10081012
即位長和5年1016129
退位長元9年1036515
崩御長元9年1036515
享年29
在位7413日(約20年)
元号寛仁
円教寺陵えんきょうじのみささぎ(京都市右京区)
備考平安京へいあんきょうにてわずか九歳で即位し、外祖父の藤原道長ふじわらのみちなが摂政せっしょうとして実権を握った。道長が「この世をば」の歌を詠んだ絶頂期を象徴する君主であり、藤原氏ふじわらうじによる摂関政治せっかんせいじの黄金時代を支えた。
皇紀1696年長元9年丙子1036年
皇紀1696年長元9年丙子1036年

第69代

後朱雀天皇ごすざくてんのう

敦良親王

一条天皇
藤原彰子
藤原嫄子
男系
生誕寛弘6年10091214
即位長元9年1036515
退位寛徳2年1045116
崩御寛徳2年1045116
享年37
在位3169日(約8年)
元号長久
朱雀陵すざくのみささぎ(京都市右京区)
備考平安京へいあんきょうで即位し、外叔父の藤原頼通ふじわらのよりみち関白かんぱくとして実権を握った。摂関政治せっかんせいじが最盛期を維持する中、仏教を深く信仰し、病に際しては出家して崩御した。その治世は、後の後三条天皇ごさんじょうてんのうによる親政へと繋がる皇統の分岐点となった。
皇紀1705年寛徳2年乙酉1045年
皇紀1705年寛徳2年乙酉1045年

第70代

後冷泉天皇ごれいぜいてんのう

親仁親王

後朱雀天皇
藤原嫄子
章子内親王
男系
生誕万寿2年1025828
即位寛徳2年1045116
退位治暦4年1068522
崩御治暦4年1068522
享年44
在位8528日(約23年)
元号天喜
円教寺陵えんきょうじのみささぎ(京都市右京区)
備考平安京へいあんきょうで即位し、外叔父の藤原頼通ふじわらのよりみち関白かんぱくとして実権を握った。東北で前九年ぜんくねんの役が起き、源頼義みなもとのよりよしらが活躍した。子に恵まれず、崩御により藤原氏ふじわらうじを外戚としない後三条天皇ごさんじょうてんのうが即位する転換点となった。
皇紀1728年治暦4年戊申1068年
皇紀1728年治暦4年戊申1068年

第71代

後三条天皇ごさんじょうてんのう

尊仁親王

後朱雀天皇
禎子内親王
馨子内親王
男系
生誕長元7年103493
即位治暦4年1068522
退位延久4年1072128
崩御延久5年1073615
享年40
在位1662日(約4年)
元号延久
円宗寺陵えんそうじのみささぎ(京都市北区)
備考平安京へいあんきょうで即位し、藤原氏ふじわらうじ外戚がいせきに持たない百七十年ぶりの天皇として親政を行った。延久えんきゅう荘園整理令しょうえんせいりれいを断行し、記録荘園券文所きろくしょうえんけんもんじょを設置して摂関家せっかんけの経済基盤を揺るがした。
皇紀1732年延久4年壬子1072年
皇紀1732年延久4年壬子1072年

第72代

白河天皇しらかわてんのう

貞仁親王

後三条天皇
馨子内親王
藤原賢子
男系
生誕天喜元年105377
即位延久4年1072128
退位寛治元年10871126
崩御大治4年1129724
享年77
在位5467日(約14年)
元号承保
成菩提院陵せいぼだいいんのみささぎ(京都市左京区)
備考平安京へいあんきょうで即位し、譲位後も上皇じょうこうとして政務を執る院政いんせいを創始した。北面ほくめんの武士を設置して軍事力を強め、仏教を篤く信奉して法勝寺ほっしょうじなどを建立した。「天下三不如意てんかさんふにょい」と称し、絶大な権勢を誇った。
皇紀1747年寛治元年丁卯1087年
皇紀1747年寛治元年丁卯1087年

第73代

堀河天皇ほりかわてんのう

善仁親王

白河天皇
藤原賢子
篤子内親王
男系
生誕承暦3年107988
即位寛治元年10871126
退位嘉承2年110789
崩御嘉承2年110789
享年29
在位7196日(約19年)
元号寛治
後円教寺陵ごえんきょうじのみささぎ(京都市右京区)
備考平安京へいあんきょうで八歳にて即位したが、父が上皇じょうこうとして院政いんせいを開始したため、実権は限られていた。寛治かんじ荘園整理令しょうえんせいりれいを発し、学問や和歌、管弦かんげんを深く愛した。その治世は、後三条ごさんじょう以来の親政の残光と院政の確立が交錯する時代であった。
皇紀1767年嘉承2年丁亥1107年
皇紀1767年嘉承2年丁亥1107年

第74代

鳥羽天皇とばてんのう

宗仁親王

堀河天皇
藤原苡子
藤原璋子
男系
生誕康和5年1103224
即位嘉承2年110789
退位保安4年1123128
崩御保元元年1156720
享年54
在位5652日(約15年)
元号天仁
安楽寿院陵あんらくじゅいんのみささぎ(京都市伏見区)
備考平安京へいあんきょうにて五歳で即位し、祖父の白河法皇しらかわほうおうによる院政いんせい下で過ごした。譲位後は自らも法皇として長きにわたり実権を握り、北面ほくめんの武士に加えて西面さいめんの武士を置くなど、武士の力を利用して権勢を振るった。
皇紀1783年保安4年癸卯1123年
皇紀1783年保安4年癸卯1123年

第75代

崇徳天皇すとくてんのう

顕仁親王

鳥羽天皇
藤原璋子
藤原聖子
男系
生誕元永2年111977
即位保安4年1123128
退位永治2年114215
崩御長寛2年1164914
享年46
在位6918日(約18年)
元号天承
白峯陵しらみねのみささぎ(香川県坂出市)
備考平安京へいあんきょうで即位したが、父である鳥羽法皇ほうおうとの不和に苦しみ、意に反して近衛天皇このえてんのうへの譲位を強いられた。法皇の崩御後、皇位継承を巡り後白河天皇ごしらかわてんのうと対立して保元ほうげんの乱を起こした。敗北して讃岐さぬきへ流され、憤怒のうちに崩御した悲劇の君主である。
皇紀1802年永治2年壬戌1142年
皇紀1802年永治2年壬戌1142年

第76代

近衛天皇このえてんのう

体仁親王

鳥羽天皇
藤原得子
藤原多子
男系
生誕保延5年1139616
即位永治2年114215
退位久寿2年1155822
崩御久寿2年1155822
享年17
在位4978日(約13年)
元号久安
安楽寿院南陵あんらくじゅいんのみなみのみささぎ(京都市伏見区)
備考鳥羽天皇とばてんのうの第九皇子。平安京へいあんきょうにてわずか三歳で即位したが、父による院政いんせい下で実権は乏しかった。異母兄の崇徳天皇すとくてんのうを退けての即位は、後の保元ほうげんの乱の遠因となった。病弱であり十七歳で崩御したため、皇位継承を巡る朝廷内の対立が激化した。
皇紀1815年久寿2年乙亥1155年
皇紀1815年久寿2年乙亥1155年

第77代

後白河天皇ごしらかわてんのう

雅仁親王

鳥羽天皇
藤原璋子
藤原忻子
男系
生誕大治2年11271018
即位久寿2年1155823
退位保元3年115895
崩御建久3年1192426
享年66
在位1110日(約3年)
元号保元
法住寺陵ほうじゅうじのみささぎ(京都市東山区)
備考鳥羽天皇とばてんのうの第四皇子。平安京へいあんきょうで即位し、保元ほうげんの乱を経て院政いんせいを開始した。平清盛たいらのきよもり源頼朝みなもとのよりともら武士の台頭に翻弄されながらも、老獪な政治手腕で対抗した。今様いまようを深く愛し、『梁塵秘抄りょうじんひしょう』を編纂したことでも名高い。
皇紀1818年保元3年戊寅1158年
皇紀1818年保元3年戊寅1158年

第78代

二条天皇にじょうてんのう

守仁親王

後白河天皇
藤原懿子
藤原多子
男系
生誕康治2年1143731
即位保元3年115895
退位長寛3年116523
崩御長寛3年116523
享年23
在位2344日(約6年)
元号永暦
香隆寺陵こうりゅうじのみささぎ(京都市右京区)
備考平安京へいあんきょうで即位し、平治へいじの乱では源義朝みなもとのよしともらに幽閉されたが、脱出して平清盛たいらのきよもりの助力を得て鎮圧した。父の院政いんせいを否定して親政を強行し、後白河院と激しく対立した「器量きりょうの天子」である。
皇紀1825年長寛3年乙酉1165年
皇紀1825年長寛3年乙酉1165年

第79代

六条天皇ろくじょうてんのう

順仁親王

二条天皇
藤原育子

男系
生誕長寛2年11641228
即位長寛3年116523
退位仁安3年1168219
崩御安元2年1176823
享年13
在位1112日(約3年)
元号仁安
清閑寺陵せいかんじのみささぎ(京都市東山区)
備考平安京へいあんきょうにて、生後わずか数か月で即位した。これは日本史上最年少の即位例である。しかし、父の崩御後に実権を握った祖父の後白河上皇ごしらかわじょうこうの意向により、三歳で叔父の高倉天皇たかくらてんのうに譲位させられた。
皇紀1828年仁安3年戊子1168年
皇紀1828年仁安3年戊子1168年

第80代

高倉天皇たかくらてんのう

憲仁親王

後白河天皇
藤原忻子
平徳子
男系
生誕応保元年1161923
即位仁安3年1168219
退位治承4年1180221
崩御治承5年1181130
享年21
在位4386日(約12年)
元号治承
後清閑寺陵のちのせいかんじのみささぎ(京都市東山区)
備考平安京へいあんきょうで即位し、平清盛たいらのきよもりの娘である徳子とくし、後の建礼門院けんれいもんいん中宮ちゅうぐうとした。平氏の権勢下で父と清盛の対立に苦しみ、安徳天皇あんとくてんのうに譲位した。温厚で誠実な性格と伝えられ、和歌や笛を愛した風流な君主である。
皇紀1840年治承4年庚子1180年
皇紀1840年治承4年庚子1180年

第81代

安徳天皇あんとくてんのう

言仁親王

高倉天皇
平徳子

男系
生誕治承2年11781222
即位治承4年1180221
退位元暦2年1185425
崩御元暦2年1185425
享年8
在位1891日(約5年)
元号治承
阿弥陀寺陵あみだじのみささぎ(山口県下関市)
備考外祖父の平清盛たいらのきよもりに擁立され、平安京へいあんきょうで即位した。源平げんぺいの争乱により、平氏へいし一門と共に西国さいごくへ逃れ、最後は壇ノ浦だんのうらの戦いで祖母の二位尼にいのあまに抱かれ、わずか六歳で海中に身を投げた悲劇の幼帝である。
皇紀1845年元暦2年乙巳1185年

鎌倉時代

鎌倉時代における天皇は、京都を拠点に伝統的な権威を維持しつつ、関東の鎌倉幕府かまくらばくふと二元的な支配体制を築いた。源頼朝みなもとのよりともの挙兵以降、軍事の実権は武士に移ったが、天皇や上皇じょうこうは依然として官位授与や寺社統制の権限を保持した。後鳥羽ごとば上皇は、承久じょうきゅうの乱を辞して幕府打倒を試みたが敗北し、隠岐おきへ配流されたことで、皇位継承や朝廷の政治に幕府の監視が及ぶ六波羅探題ろくはらたんだいが置かれた。その後、皇統は後深草ごふかくさ天皇の持明院統じみょういんとう亀山かめやま天皇の大覚寺統だいかくじとうに分裂し、両統りょうとう迭立と呼ばれる交代での即位が幕府の裁定で行われた。末期には後醍醐ごだいご天皇が倒幕を掲げ、足利尊氏あしかがたかうじらの協力を得て幕府を滅ぼしたが、理想とした天皇親政の建武けんむの新政は短期間で瓦解し、時代は南北朝なんぼくちょうの動乱へと突き進んだのである。

皇紀1843年寿永2年癸卯1183年

第82代

後鳥羽天皇ごとばてんのう

尊成親王

高倉天皇
藤原殖子
藤原任子
男系
生誕治承4年118086
即位寿永2年1183820
退位建久9年1198218
崩御暦仁2年1239328
享年60
在位5297日(約14年)
元号元暦
大原陵おおはらのみささぎ(京都市左京区)
備考平安京へいあんきょうにて神器じんぎなきまま即位し、多才な君主として院政いんせいを敷いた。鎌倉幕府かまくらばくふ北条義時ほうじょうよしときを討つべく承久じょうきゅうの乱を起こしたが敗北し、隠岐おきに流された。『新古今和歌集しんこきんわかしゅう』を編纂させた文武両道の巨星である。
皇紀1858年建久9年戊午1198年
皇紀1858年建久9年戊午1198年

第83代

土御門天皇つちみかどてんのう

為仁親王

後鳥羽天皇
藤原重子

男系
生誕建久7年119613
即位建久9年1198218
退位承元4年12101212
崩御寛喜3年1231116
享年36
在位4681日(約12年)
元号正治
金原陵かねがはらのみささぎ(京都市北区)
備考平安京へいあんきょうにて即位したが、父による院政いんせい下で実権は乏しかった。承久じょうきゅうの乱には直接関与しなかったが、父の隠岐おき配流を嘆き、自ら望んで土佐とさへ、後に阿波あわの地へ移り住んだ。温厚な性格で和歌を愛した。
皇紀1870年承元4年庚午1210年
皇紀1870年承元4年庚午1210年

第84代

順徳天皇じゅんとくてんのう

守成親王

後鳥羽天皇
藤原重子
藤原立子
男系
生誕建久8年11971022
即位承元4年12101212
退位承久3年1221513
崩御仁治3年1242107
享年46
在位3806日(約10年)
元号建暦
真野陵まののみささぎ(新潟県佐渡市)
備考平安京へいあんきょうで即位し、父と共に鎌倉幕府かまくらばくふへの倒幕を画策した。承久じょうきゅうの乱に加担したが敗北し、佐渡さどへ配流された。有職故実ゆうそくこじつの書『禁秘抄きんぴしょう』を著し、歌道かどうにも深く通じた情熱的な君主である。
皇紀1881年承久3年辛巳1221年
皇紀1881年承久3年辛巳1221年

第85代

仲恭天皇ちゅうきょうてんのう

懐成親王

順徳天皇
藤原立子

男系
生誕建保6年12181030
即位承久3年1221513
退位承久3年1221729
崩御天福2年1234618
享年17
在位78日(約0年)
元号承久
九条陵くじょうのみささぎ(京都市南区)
備考平安京へいあんきょうにてわずか四歳で即位したが、直後に勃発した承久じょうきゅうの乱で倒幕派が敗北したため、在位わずか七十余日で廃位された。長らく九条廃帝くじょうはいたいと呼ばれ、明治時代に至って正式に諡号しごうが贈られた。
皇紀1881年承久3年辛巳1221年
皇紀1881年承久3年辛巳1221年

第86代

後堀河天皇ごほりかわてんのう

茂仁親王

守貞親王
藤原陳子
九条竴子
男系
生誕建暦2年1212322
即位承久3年1221729
退位貞永元年1232104
崩御天福2年1234911
享年23
在位4086日(約11年)
元号貞応
観音寺陵かんのんじのみささぎ(京都市東山区)
備考承久じょうきゅうの乱で後鳥羽ごとば上皇方が敗北した後、鎌倉幕府かまくらばくふによって平安京へいあんきょうで擁立された。父を後高倉院ごたかくらいんとして院政いんせいを行わせる異例の体制をとったが、後に自らも院政を敷き、動乱後の朝廷の安定を図った。
皇紀1892年貞永元年壬辰1232年
皇紀1892年貞永元年壬辰1232年

第87代

四条天皇しじょうてんのう

秀仁親王

後堀河天皇
九条竴子

男系
生誕寛喜3年1231317
即位貞永元年1232104
退位仁治3年1242210
崩御仁治3年1242210
享年12
在位3417日(約9年)
元号仁治
月輪陵つきのわのみささぎ(京都市東山区)
備考平安京へいあんきょうにてわずか二歳で即位し、外祖父の九条道家くじょうみちいえが実権を握った。幼いながらも快活な性格であったが、十二歳の時、近臣を転ばせようと御所ごしょの床に滑り石を撒いたところ、自らが転倒して急逝した。
皇紀1902年仁治3年壬寅1242年
皇紀1902年仁治3年壬寅1242年

第88代

後嵯峨天皇ごさがてんのう

邦仁親王

土御門天皇
源通子
大宮院
男系
生誕承久2年1220226
即位仁治3年1242221
退位寛元4年1246129
崩御文永9年1272317
享年53
在位1439日(約3年)
元号寛元
嵯峨南陵さがのみなみのみささぎ(京都市右京区)
備考四条天皇しじょうてんのうの急逝後、鎌倉幕府かまくらばくふの強力な後押しを受けて平安京へいあんきょうで即位した。譲位後は長年にわたり院政いんせいを敷き、幕府との協調路線を歩んだ。その後の皇統が持明院統じみょういんとう大覚寺統だいかくじとう両統りょうとうに分裂する端緒を作った重要人物である。
皇紀1906年寛元4年丙午1246年
皇紀1906年寛元4年丙午1246年

第89代

後深草天皇ごふかくさてんのう

久仁親王

後嵯峨天皇
西園寺姞子
洞院愔子
男系
生誕寛元元年1243628
即位寛元4年1246129
退位正元2年126019
崩御嘉元2年1304817
享年62
在位5094日(約13年)
元号建長
深草北陵ふかくさのきたのみささぎ(京都市伏見区)
備考平安京へいあんきょうで即位したが、父の意向により弟の亀山天皇かめやまてんのうに譲位を強いられた。後に自身の皇子を即位させ、持明院じみょういんを拠点に院政いんせいを敷いた。これが後の北朝ほくちょうへと繋がる持明院統じみょういんとうの祖となった。
皇紀1920年正元2年庚申1260年
皇紀1920年正元2年庚申1260年

第90代

亀山天皇かめやまてんのう

恒仁親王

後嵯峨天皇
西園寺姞子
洞院佶子
男系
生誕建長元年124979
即位正元2年126019
退位文永11年1274126
崩御嘉元3年1305104
享年57
在位5132日(約14年)
元号文永
亀山陵かめやまのみささぎ(京都市右京区)
備考平安京へいあんきょうで即位し、父の寵愛を受けて兄の後深草天皇ごふかくさてんのうから譲位された。退位後は大覚寺だいかくじを拠点に院政いんせいを敷き、これが後の南朝なんちょうへと繋がる大覚寺統だいかくじとうの祖となった。げんの襲来という国難に際し、神祈に敵国降伏を祈ったことでも知られる。
皇紀1934年文永11年甲戌1274年
皇紀1934年文永11年甲戌1274年

第91代

後宇多天皇ごうだてんのう

世仁親王

亀山天皇
洞院佶子
西園寺鏱子
男系
生誕文永4年12671217
即位文永11年1274126
退位弘安10年12871021
崩御元亨4年1324716
享年58
在位5017日(約13年)
元号建治
大覚寺陵だいかくじのみささぎ(京都市右京区)
備考大覚寺だいかくじを拠点に院政いんせいを行い、大覚寺統だいかくじとうの確立に尽力した。鎌倉幕府かまくらばくふの介入により持明院統じみょういんとう後伏見天皇ごふしみてんのうへの譲位を強いられたが、後に次男の後醍醐天皇ごだいごてんのうを即位させ、倒幕の機運を支えた。
皇紀1947年弘安10年丁亥1287年
皇紀1947年弘安10年丁亥1287年

第92代

伏見天皇ふしみてんのう

煕仁親王

後深草天皇
洞院愔子
西園寺鏱子
男系
生誕文永2年1265510
即位弘安10年12871021
退位永仁6年1298830
崩御文保元年1317108
享年53
在位3967日(約10年)
元号正応
深草北陵ふかくさのきたのみささぎ(京都市伏見区)
備考平安京へいあんきょうで即位し、持明院統じみょういんとうの確立に尽力した。鎌倉幕府かまくらばくふとの協調を重んじ、父と共に院政いんせいを展開した。書道や和歌に優れた才能を発揮し、伏見院流ふしみいんりゅうの祖として名高い。また、暗殺未遂事件である浅原為頼あさはらためよりの乱に遭うも、冷静に対処した。
皇紀1958年永仁6年戊戌1298年
皇紀1958年永仁6年戊戌1298年

第93代

後伏見天皇ごふしみてんのう

胤仁親王

伏見天皇
西園寺鏱子
西園寺寧子
男系
生誕弘安11年128845
即位永仁6年1298830
退位正安3年1301121
崩御延元元年1336517
享年49
在位875日(約2年)
元号永仁
深草北陵ふかくさのきたのみささぎ(京都市伏見区)
備考平安京へいあんきょうにて十一歳で即位し、持明院統じみょういんとうとして父の院政いんせいを支えた。大覚寺統だいかくじとうとの対立が激化する中、鎌倉幕府かまくらばくふの裁定により後宇多天皇ごうだてんのうの皇子に譲位した。退位後も長きにわたり院政を敷き、北朝ほくちょうの正統性を支える重鎮となった。
皇紀1961年正安3年辛丑1301年
皇紀1961年正安3年辛丑1301年

第94代

後二条天皇ごにじょうてんのう

邦治親王

後宇多天皇
西園寺鏱子
西園寺禧子
男系
生誕弘安8年128539
即位正安3年1301121
退位徳治3年1308910
崩御徳治3年1308910
享年24
在位2790日(約7年)
元号正安
大覚寺陵だいかくじのみささぎ(京都市右京区)
備考大覚寺統だいかくじとうとして平安京へいあんきょうで即位し、父の院政いんせい下で政務に当たった。鎌倉幕府かまくらばくふの介入による両統迭立りょうとうてつりつの原則に従い、在位八年で二十四歳の若さで崩御した。その穏やかな治世は、後の激動する南北朝なんぼくちょう時代の前夜にあたる。
皇紀1968年徳治3年戊申1308年
皇紀1968年徳治3年戊申1308年

第95代

花園天皇はなぞのてんのう

富仁親王

伏見天皇
洞院季子
徽安門院
男系
生誕永仁5年1297814
即位徳治3年1308108
退位文保2年1318226
崩御貞和4年1348122
享年52
在位3429日(約9年)
元号延慶
十楽院陵じゅうらくいんのみささぎ(京都市右京区)
備考持明院統じみょういんとうとして平安京へいあんきょうで即位した。鎌倉幕府かまくらばくふの裁定による両統迭立りょうとうてつりつの中で在位し、退位後は後醍醐天皇ごだいごてんのうの皇太子に自身の猶子ゆうしを立てるなど皇統の護持に努めた。和歌や学問に深く通じ、京極派きょうごくはの中核として『風雅和歌集ふうがわかしゅう』の撰集に寄与したほか、日記『花園天皇宸記しんき』を残した。
皇紀1978年文保2年戊午1318年

鎌倉末期時代

皇紀1978年文保2年戊午1318年

第96代

後醍醐天皇ごだいごてんのう

尊治親王

後宇多天皇
藤原忠子
西園寺禧子
男系
生誕正応元年12881126
即位文保2年1318226
退位延元4年1339919
崩御延元4年1339919
享年52
在位7876日(約21年)
元号元亨
塔尾陵とうのおのみささぎ(奈良県吉野町)
備考平安京へいあんきょうで即位し、足利尊氏あしかがたかうじらと結んで鎌倉幕府かまくらばくふを倒した。建武けんむ新政しんせいを断行したが、後に尊氏と対立して吉野よしのへ逃れ、南朝なんちょうを樹立した。南北朝なんぼくちょう時代の端緒を開き、親政に執念を燃やした波乱の君主である。
皇紀1999年延元4年己卯1339年

南北朝時代

南北朝なんぼくちょう時代における天皇は、皇統が二つに分裂し、それぞれの正統性を主張して激しく対立した。後醍醐ごだいご天皇は足利尊氏あしかがたかうじと離反した後、吉野よしのへ逃れて南朝なんちょうを樹立し、三種の神器を奉じて天皇親政の再興を目指した。一方、京都きょうとでは幕府の支援を受けた光厳こうごん上皇が北朝ほくちょうを立て、光明天皇を即位させることで、二つの朝廷が並立する異常事態となった。この時期、各地の武士は恩賞を求めて両朝に分かれて戦い、楠木正成くすのきまさしげ新田義貞にったよしたけらが南朝側で奮闘した。北朝は室町むろまち幕府の政治的盾となり、南朝は次第に劣勢に追い込まれたが、後村上ごむらかみ天皇らは抵抗を続けた。最終的に、将軍である足利義満あしかがよしみつの仲介により、後亀山ごかめやま天皇が後小松ごこまつ天皇に神器を譲る形で合一が果たされ、半世紀以上にわたる動乱は終結したのである。

皇紀1999年延元4年己卯1339年

第97代

後村上天皇ごむらかみてんのう

義良親王

後醍醐天皇
阿野廉子
藤原勝子
男系
生誕嘉暦2年1328--
即位延元4年1339919
退位応安元年1368329
崩御応安元年1368329
享年41
在位10420日(約28年)
元号延元
檜尾陵ひのおのみささぎ(奈良県吉野町)
備考南朝なんちょうの第二代天皇である。後醍醐天皇ごだいごてんのうの第七皇子。父の遺志を継ぎ、吉野よしので即位した。足利尊氏あしかがたかうじ北朝ほくちょう勢力と激しく対立し、賀名生あのう天野あまのなど各地を転々としながら政務を執った。楠木正行くすのきまさつららの忠臣に支えられ、南朝の正統性を守り抜くことに生涯を捧げた。
皇紀2028年応安元年戊申1368年
皇紀2028年応安元年戊申1368年

第98代

長慶天皇ちょうけいてんのう

寛成親王

後村上天皇
藤原勝子

男系
生誕興国3年1343--
即位応安元年1368329
退位永徳3年138311
崩御元中11年139411
享年52
在位5392日(約14年)
元号建徳
嵯峨東陵さがのひがしのみささぎ(京都市右京区)
備考南朝の天皇。住吉すみよし行宮あんぐうで即位した。北朝ほくちょうとの和平を拒む強硬派として知られ、足利義満あしかがよしみつら武家勢力に抗戦し続けた。在位については長らく謎とされてきたが、大正時代に正式に歴代天皇として公認された。
皇紀2043年永徳3年癸亥1383年
皇紀2043年永徳3年癸亥1383年

第99代

後亀山天皇ごかめやまてんのう

熙成親王

後村上天皇
藤原勝子

男系
生誕興国7年1347--
即位永徳3年138311
退位元中9年13921119
崩御応永31年1424510
享年78
在位3611日(約9年)
元号弘和
嵯峨南陵さがのみなみのみささぎ(京都市右京区)
備考足利義満あしかがよしみつによる和平案に応じ、大覚寺だいかくじにて三種の神器さんしゅのじんぎ北朝ほくちょう後小松天皇ごこまつてんのうへ引き渡した。これにより、半世紀以上にわたる南北朝なんぼくちょうの合一を実現した。
皇紀2052年元中9年壬申1392年

室町時代

皇紀2052年元中9年壬申1392年

第100代

後小松天皇ごこまつてんのう

幹仁親王

後円融天皇
藤原厳子
日野栄子
男系
生誕永和3年137781
即位元中9年13921119
退位応永19年1412105
崩御永享5年1433121
享年57
在位7260日(約19年)
元号明徳
深草北陵ふかくさのきたのみささぎ(京都市伏見区)
備考平安京へいあんきょうを拠点とし、足利義満あしかがよしみつの仲介で南朝なんちょう後亀山天皇ごかめやまてんのうから神器じんぎを譲り受けた。これにより南北朝なんぼくちょうの合一を果たし、唯一の正統な天皇となった。
皇紀2072年応永19年壬辰1412年
皇紀2072年応永19年壬辰1412年

第101代

称光天皇しょうこうてんのう

躬仁

後小松天皇
日野西資子
万秋門院
持明院統
生誕応永8年1401512
即位応永19年1412105
退位正長元年1428830
崩御正長元年1428830
享年28
在位5809日(約15年)
元号応永・正長
深草北陵ふかくさのきたのみささぎ(京都府京都市)
備考平安京へいあんきょうを拠点とし、足利義持あしかがよしもち室町幕府むろまちばくふの補佐を受けて政務に当たった。病弱で感情の起伏が激しい性格と伝えられ、世継ぎに恵まれなかった。その崩御により後深草天皇ごふかくさてんのうの直系は途絶え、伏見宮ふしみのみや家から後花園天皇ごはなぞのてんのうを迎えることで皇統を繋いだ。
皇紀2088年正長元年戊申1428年
皇紀2088年正長元年戊申1428年

第102代

後花園天皇ごはなぞのてんのう

彦仁

伏見宮貞成親王
庭田幸子
日野重子
伏見宮系
生誕応永26年1419710
即位正長元年142897
退位寛正5年1464719
崩御文明2年1470118
享年52
在位13100日(約35年)
元号正長・永享・嘉吉・文安・宝徳・享徳・康正・長禄・寛正
後花園天皇陵ごはなぞのてんのうりょう(京都府京都市)
備考称光天皇しょうこうてんのうの崩御後、後小松上皇ごこまつじょうこう猶子ゆうしとして平安京へいあんきょうで即位した。嘉吉かきつの乱や応仁おうにんの乱といった室町幕府むろまちばくふの動乱期に在位し、足利義政あしかがよしみつに教戒の詩を送るなど、荒廃する社会の中で高い倫理観を示した名君とされる。
皇紀2124年寛正5年甲申1464年
皇紀2124年寛正5年甲申1464年

第103代

後土御門天皇ごつちみかどてんのう

成仁

後花園天皇
日野重子
庭田朝子
伏見宮系
生誕嘉吉2年144273
即位寛正5年1464719
退位明応9年1500928
崩御明応9年1500928
享年59
在位13220日(約36年)
元号寛正・文正・応仁・文明・長享・延徳・明応
深草北陵ふかくさのきたのみささぎ(京都府京都市)
備考平安京へいあんきょうで即位したが、在位中に応仁おうにんの乱が勃発した。戦火を避けて足利義政あしかがよしまさ室町第むろまちだいへ避難し、十数年にわたり居所を転々とした。朝廷の儀式が途絶え、財政難に苦しむ中で崩御したが、葬儀も滞るほどの困窮を極めた悲劇の君主である。
皇紀2160年明応9年庚申1500年
皇紀2160年明応9年庚申1500年

第104代

後柏原天皇ごかしわばらてんのう

勝仁

後土御門天皇
庭田朝子
藤原藤子
伏見宮系
生誕寛正5年14641119
即位明応9年15001025
退位大永6年1526519
崩御大永6年1526519
享年63
在位9338日(約25年)
元号明応・文亀・永正・大永
深草北陵ふかくさのきたのみささぎ(京都府京都市)
備考戦国せんごく時代の混乱期に平安京へいあんきょうで即位したが、朝廷の財政が極度に困窮し、即位の礼を挙行するまでに二十一年を要した。室町幕府むろまちばくふの権威失墜と京都きょうとの荒廃の中、和歌や有職故実ゆうそくこじつの復興に努め、皇室の伝統を守り抜いた。
皇紀2186年大永6年丙戌1526年

戦国時代

戦国せんごく時代における天皇は、応仁おうにんの乱以降の京都きょうとの荒廃により、朝廷の経済基盤である領地を失い、深刻な窮乏に直面した。後土御門ごつちみかど天皇の代には、資金不足で崩御から四十日以上も葬儀が行えず、後奈良ごなら天皇の即位式も十年以上延期されるほど、王権は実質的な統治能力を喪失したのである。しかし、戦国大名たちは自らの支配の正当性を証明するため、官位かんいの授与を求めて献金を続け、天皇は国家の儀礼的権威としての地位を辛うじて維持した。その後、織田信長おだのぶなが上洛じょうらくを果たすと、正親町おおぎまち天皇は信長の武力を背景に朝廷の修理や経済的支援を受け、政治的復権の足がかりを得た。天皇は武力を持たない存在でありながら、乱世における伝統的秩序の頂点として、毛利元就もうりもとなりら各地の有力者からも崇敬を集め、戦乱を収束させるための大義名分を付与する唯一無二の装置であり続けたのである。

皇紀2186年大永6年丙戌1526年

第105代

後奈良天皇ごならてんのう

知仁

後柏原天皇
藤原藤子
近衛晴子
伏見宮系
生誕明応6年1497126
即位大永6年152669
退位弘治3年1557927
崩御弘治3年1557927
享年61
在位11434日(約31年)
元号大永・享禄・天文・弘治
深草北陵ふかくさのきたのみささぎ(京都府京都市)
備考戦国せんごく時代の混乱と極度の財政難により、即位の礼を挙行するまでに十年を要した。京都きょうとの朝廷の権威が失墜する中、自ら般若心経はんにゃしんぎょうを書写して各地の諸社に奉納し、飢饉や疫病えきびょうの終息を祈願した誠実な君主である。
皇紀2217年弘治3年丁巳1557年

安土桃山時代

安土桃山あづちももやま時代における天皇は、織田信長おだのぶなが豊臣秀吉とよとみひでよしら天下人の武力と財力を背景に、戦国期の困窮から脱して権威の再興を果たした。正親町おおぎまち天皇の代には、京都きょうとの上洛を果たした信長から内裏だいりの修理や経済的支援を受け、朝廷の儀式が復活した。続く後陽成ごようぜい天皇の代、秀吉は関白かんぱくの地位を得て天皇の権威を自らの統治の正当性に利用した。秀吉は聚楽第じゅらくだいへの行幸ぎょうこうを仰ぎ、諸大名に天皇への忠誠を誓わせることで、武家関白制という独自の支配体系を築いたのである。天皇は自ら政治を主導することはなかったが、官位かんい授与や改元かいげんの権限を通じて、統一国家の精神的な頂点として君臨した。しかし、同時に武家伝奏ぶけでんそうを介した武家による朝廷統制も強まり、近世的な「象徴としての天皇」への道が整えられたのである。

皇紀2217年弘治3年丁巳1557年

第106代

正親町天皇おおぎまちてんのう

方仁

後奈良天皇
藤原栄子
近衛前子
伏見宮系
生誕永正14年1517618
即位弘治3年15571027
退位天正14年15861217
崩御文禄2年159326
享年77
在位10644日(約29年)
元号弘治・永禄・元亀・天正
深草北陵ふかくさのきたのみささぎ(京都府京都市)
備考戦国せんごく時代の京都きょうとで即位したが、当初は困窮を極めた。織田信長おだのぶながの援助を受けて即位式を挙げ、毛利元就もうりもとなりらの献金で朝廷の権威を回復させた。信長との間に緊張を孕んだ交渉を続け、近世への架け橋となった。
皇紀2246年天正14年丙戌1586年

安土桃山・江戸時代

皇紀2246年天正14年丙戌1586年

第107代

後陽成天皇ごようぜいてんのう

和仁

正親町天皇
勧修寺晴子
近衛前子
伏見宮系
生誕元亀3年15721231
即位天正14年15861217
退位慶長16年161159
崩御元和3年1617925
享年46
在位8910日(約24年)
元号天正・文禄・慶長
深草北陵ふかくさのきたのみささぎ(京都府京都市)
備考豊臣秀吉とよとみひでよし聚楽第じゅらくだい行幸を受け入れて朝廷の威信を示した。また、徳川家康とくがわいえやす征夷大将軍せいいたいしょうぐんに任じ、江戸えど幕府の成立を承認した。古活字こかつじ版による慶長けいちょう勅版の刊行など、文教の振興にも大きな足跡を残した。
皇紀2271年慶長16年辛亥1611年

江戸時代

江戸えど時代における天皇は、徳川家康とくがわいえやすによって制定された「禁中並公家諸法度きんちゅうならびにくげしょはっと」により、その活動を学問や和歌、儀式などの文化的な側面に厳格に制限された。京都きょうと京都御所きょうとごしょを拠点とした歴代天皇は、幕府が派遣する京都所司代きょうとしょしだいの監視下に置かれ、政治的な実権は失われていたのである。後水尾ごみずのお天皇の代には、紫衣しえ事件を通じて幕府の法度が朝廷の伝統に優先することが示され、天皇の権限はさらに縮小した。しかし、天皇は依然として官位かんいを授与する唯一の源泉であり、幕府の将軍でさえその正統性を担保するために朝廷の権威を必要とした。時代の中期以降、本居宣長もとおりのりながらによる国学こくがくの興隆とともに尊王そんのう思想が広まると、天皇の神聖な地位が再認識されるようになった。幕末に至り、孝明こうめい天皇が条約勅許じょうやくちょっきょを拒否したことで、天皇は再び政治の表舞台へと押し上げられたのである。

皇紀2271年慶長16年辛亥1611年

第108代

後水尾天皇ごみずのおてんのう

政仁

後陽成天皇
近衛前子
徳川和子
伏見宮系
生誕文禄5年1596629
即位慶長16年161159
退位寛永6年16291222
崩御延宝8年1680911
享年85
在位6803日(約18年)
元号慶長・元和・寛永
月輪陵つきのわのみささぎ(京都府京都市)
備考江戸えど幕府の統制を強める禁中並公家諸法度きんちゅうならびにくげしょはっと紫衣事件しえじけんに激しく抵抗し、幕府に無断で明正天皇めいしょうてんのうへ譲位した。退位後は修学院離宮しゅがくいんりきゅうを造営し、長年にわたり院政いんせいを敷いて寛永かんえい文化の立役者となった。
皇紀2289年寛永6年己巳1629年
皇紀2289年寛永6年己巳1629年

第109代

明正天皇めいしょうてんのう

興子

後水尾天皇
徳川和子

伏見宮系
生誕元和10年162419
即位寛永6年16291222
退位寛永20年1643103
崩御元禄9年1696124
享年73
在位5034日(約13年)
元号寛永
月輪陵つきのわのみささぎ(京都府京都市)
備考奈良時代以来となる女帝である。後水尾天皇ごみずのおてんのうの第二皇女。徳川和子とくがわまさこを母とし、江戸えど幕府との紫衣事件しえじけんで憤った父の突然の譲位を受け、七歳で即位した。在位中は父による院政いんせいが敷かれ、幕府と朝廷の架け橋としての役割を担った。
皇紀2303年寛永20年癸未1643年
皇紀2303年寛永20年癸未1643年

第110代

後光明天皇ごこうみょうてんのう

紹仁

後水尾天皇
壬生院

伏見宮系
生誕寛永10年1633420
即位寛永20年1643103
退位承応3年16541030
崩御承応3年16541030
享年22
在位4046日(約11年)
元号寛永・正保・慶安・承応
月輪陵つきのわのみささぎ(京都府京都市)
備考江戸えどの幕府による朝廷統制に反発し、儒学じゅがくを尊んで古来の朝儀ちょうぎの復興に努めた。武芸や学問を奨励し、和歌を軽んじて実学を重んじる独自の姿勢を示した。将来を期待された英明な君主であったが、二十二歳の若さで痘瘡とうそうにより急逝した。
皇紀2314年承応3年甲午1654年
皇紀2315年承応4年乙未1655年

第111代

後西天皇ごさいてんのう

良仁

後水尾天皇
逢春門院

持明院統
生誕寛永15年163811
即位承応4年165515
退位寛文3年166335
崩御貞享2年1685326
享年48
在位2982日(約8年)
元号明暦・万治・寛文
月輪陵つきのわのみささぎ(京都府京都市)
備考江戸えどの幕府による統制下、急逝した後光明天皇ごこうみょうてんのうの跡を継ぎ即位した。在位中に明暦めいれきの大火や伊勢神宮いせじんぐうの炎上、各地の大地震が相次いだため、不吉の責任を負う形で霊元天皇れいげんてんのうへ譲位した。学問や和歌に深く通じた教養人である。
皇紀2323年寛文3年癸卯1663年
皇紀2323年寛文3年癸卯1663年

第112代

霊元天皇れいげんてんのう

識仁

後水尾天皇
園基子
鷹司房子
持明院統
生誕承応3年165479
即位寛文3年166335
退位貞享4年168756
崩御享保17年1732924
享年79
在位8829日(約24年)
元号寛文・延宝・天和・貞享
月輪陵つきのわのみささぎ(京都府京都市)
備考江戸えど幕府による朝廷統制に強く反発し、譲位後も京都きょうと仙洞御所せんとうごしょで長年にわたり院政いんせいを敷いた。古来の朝儀ちょうぎである大嘗祭だいじょうさいの再興に尽力し、和歌や書道にも優れた才能を発揮した。近世における皇権回復を目指した、意志の強い君主である。
皇紀2347年貞享4年丁卯1687年
皇紀2347年貞享4年丁卯1687年

第113代

東山天皇ひがしやまてんのう

朝仁

霊元天皇
松木宗子
幸子女王
持明院統
生誕延宝3年16751021
即位貞享4年168756
退位宝永6年1709727
崩御宝永7年1710116
享年36
在位8118日(約22年)
元号貞享・元禄・宝永
月輪陵つきのわのみささぎ(京都府京都市)
備考京都きょうとの朝廷で即位し、父による剛毅な院政いんせいを引き継ぎつつも、江戸えど幕府の徳川綱吉とくがわつなよしらと協調路線を歩んだ。この融和政策により、皇室の領地である御領ごりょうの増強や、途絶えていた大嘗祭だいじょうさいの継続的な再興を確固たるものとした。
皇紀2369年宝永6年己丑1709年
皇紀2369年宝永6年己丑1709年

第114代

中御門天皇なかみかどてんのう

慶仁

東山天皇
松木宗子
近衛尚子
持明院統
生誕元禄15年1702114
即位宝永6年1709727
退位享保20年1735321
崩御元文2年1737510
享年36
在位9369日(約25年)
元号宝永・正徳・享保
月輪陵つきのわのみささぎ(京都府京都市)
備考京都きょうとの朝廷にて五歳で即位し、父や祖父の霊元天皇れいげんてんのう院政いんせいを敷いた。江戸えど幕府の新井白石あらいはくせきらによる正徳しょうとくの治の時期にあたり、閑院宮かんいんのみや家の創設を認めるなど、幕府との良好な協調関係を築いた。
皇紀2395年享保20年乙卯1735年
皇紀2395年享保20年乙卯1735年

第115代

桜町天皇さくらまちてんのう

昭仁

中御門天皇
近衛尚子
二条舎子
持明院統
生誕享保5年172028
即位享保20年1735321
退位延享4年174769
崩御寛延3年1750528
享年31
在位4464日(約12年)
元号享保・元文・寛保・延享
月輪陵つきのわのみささぎ(京都府京都市)
備考京都きょうとの朝廷で即位し、江戸えど幕府の徳川吉宗とくがわよしむねと協調しつつ、大嘗祭だいじょうさい新嘗祭にいなめさいなどの古儀を次々と再興した。聖徳太子しょうとくたいしの再来と称えられるほど学問や歌道に精通し、皇権の威信回復に努めた英明な君主である。
皇紀2407年延享4年丁卯1747年
皇紀2407年延享4年丁卯1747年

第116代

桃園天皇ももぞのてんのう

遐仁

桜町天皇
二条舎子
一条富子
持明院統
生誕寛保元年1741414
即位延享4年174769
退位宝暦12年1762831
崩御宝暦12年1762831
享年22
在位5563日(約15年)
元号延享・寛延・宝暦
月輪陵つきのわのみささぎ(京都府京都市)
備考京都きょうとの朝廷にて五歳で即位したが、江戸えど幕府による統制下で実権は乏しかった。在位中に竹内式部たけのうちしきぶらが尊王論そんのうろんを説き、公家たちが天皇の親政を望んで幕府と衝突した宝暦事件ほうれきじけんが勃発した。二十二歳の若さで崩御し、後桜町天皇ごさくらまちてんのうに譲位した。
皇紀2422年宝暦12年壬午1762年
皇紀2422年宝暦12年壬午1762年

第117代

後桜町天皇ごさくらまちてんのう

智子

桜町天皇
二条舎子

持明院統
生誕元文5年1740923
即位宝暦12年1762915
退位明和8年177119
崩御文化10年18131224
享年74
在位3039日(約8年)
元号宝暦・明和
月輪陵つきのわのみささぎ(京都府京都市)
備考日本史上最後の女帝である。桜町天皇さくらまちてんのうの第二皇女。京都きょうとの朝廷にて、崩御した弟の桃園天皇ももぞのてんのうの遺児が成人するまでの中継ぎとして即位した。江戸えど幕府の統制下で古儀の復興に努め、譲位後も長年にわたり国母こくぼとして朝廷の重鎮であり続けた。
皇紀2431年明和8年辛卯1771年
皇紀2431年明和8年辛卯1771年

第118代

後桃園天皇ごももぞのてんのう

英仁

桃園天皇
一条富子

持明院統
生誕宝暦8年175885
即位明和8年177119
退位安永8年17791216
崩御安永8年17791216
享年22
在位3264日(約8年)
元号明和・安永
月輪陵つきのわのみささぎ(京都府京都市)
備考叔母の後桜町天皇ごさくらまちてんのうから譲位を受け、京都きょうとの朝廷で即位した。江戸えど幕府の統制下で静かに政務を執ったが、病弱のため二十二歳の若さで崩御した。男子がいなかったため、閑院宮かんいんのみや家から光格天皇こうかくてんのうを養子に迎えて皇統を繋いだ。
皇紀2439年安永8年己亥1779年
皇紀2439年安永8年己亥1779年

第119代

光格天皇こうかくてんのう

師仁

閑院宮典仁親王
吉田氏
欣子内親王
閑院宮家
生誕明和8年1771923
即位安永8年17791216
退位文化14年181757
崩御天保11年18401211
享年70
在位13657日(約37年)
元号安永・天明・寛政・享和・文化
後月輪陵のちのつきのわのみささぎ(京都府京都市)
備考後桃園天皇ごももぞのてんのうの急逝後、京都きょうとの朝廷で即位した。実父に太上天皇だいじょうてんのうの尊号を贈ろうとして江戸えど幕府と対立した尊号事件そんごうじけんが有名である。朝儀の復興に尽力し、近世における皇権回復の先駆者となった名君である。
皇紀2477年文化14年丁丑1817年
皇紀2477年文化14年丁丑1817年

第120代

仁孝天皇にんこうてんのう

恵仁

光格天皇
東京極院
鷹司繋子
光格系
生誕寛政12年1800316
即位文化14年181757
退位弘化3年1846221
崩御弘化3年1846221
享年47
在位10518日(約28年)
元号文化・文政・天保・弘化
後月輪陵のちのつきのわのみささぎ(京都府京都市)
備考京都きょうとの朝廷で即位し、父による皇権回復の路線を継承した。学問を深く奨励し、公家の子弟教育のために学習所がくしゅうじょ、後の学習院がくしゅういんの創設を命じた。また、廃絶していた儀式の再興に尽力し、幕末ばくまつの動乱前夜において朝廷の権威と文教の振興に大きな足跡を残した。
皇紀2506年弘化3年丙午1846年
皇紀2506年弘化3年丙午1846年

第121代

孝明天皇こうめいてんのう

統仁

仁孝天皇
正親町雅子
九条夙子
光格系
生誕天保2年1831711
即位弘化3年1846221
退位慶応3年1867130
崩御慶応3年1867130
享年37
在位7649日(約20年)
元号弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応
後月輪東山陵のちのつきのわのひがしやまのみささぎ(京都府京都市)
備考幕末ばくまつ京都きょうとで即位し、ペリー来航らいこう以来の国難に直面した。強固な攘夷じょうい思想を貫きつつ公武合体こうぶがったいを推進し、江戸えど幕府の統治を認めながらも朝廷の政治的権威を劇的に高めた。明治維新めいじいしんを目前に、三十六歳の若さで崩御した。
皇紀2527年慶応3年丁卯1867年

明治時代

明治めいじ時代における天皇は、倒幕後の王政復古おうせいふっこを経て、千年に及ぶ公武合体こうぶがったい幕藩ばくはん体制を打破し、近代国家の絶対的な主権者へと変貌を遂げた。東京とうきょうへの遷都後、明治天皇は一世一元いっせいいちげんの制を確立し、五箇条の御誓文ごかじょうのごせいもんを通じて国家の基本方針を示したのである。さらに、大日本帝国憲法だいにっぽんていこくけんぽうの制定により、天皇は「神聖しんせいにして侵すべからず」とされる統治権の総攬者そうらんしゃとして法的に位置づけられた。これにより、陸海軍りくかいぐん統帥権とうすいけんを握る大元帥だいげんすいとしての軍事的側面と、教育勅語きょういくちょくごを通じて国民の精神的支柱となる国民国家の象徴的側面を併せ持つこととなった。日清にっしん戦争や日露にちろ戦争の勝利を経て、天皇の権威は内外に高まり、日本はアジアで唯一の立憲りっけん君主制国家として近代化を完遂したのである。

皇紀2527年慶応3年丁卯1867年

第122代

明治天皇めいじてんのう

睦仁

孝明天皇
中山慶子
昭憲皇太后
光格系
生誕嘉永5年1852113
即位慶応3年1867213
退位大正元年1912730
崩御大正元年1912730
享年61
在位16604日(約45年)
元号明治
伏見桃山陵ふしみももやまのみささぎ(京都府京都市)
備考京都きょうとで即位し、明治維新めいじいしんを経て東京とうきょうへ遷った。五箇条ごかじょう御誓文ごせいもんを発し、大日本帝国憲法だいにっぽんていこくけんぽうを公布して近代国家の基礎を築いた。日清にっしん日露にちろの両戦争を勝ち抜き、日本の国際的地位を飛躍的に高めた英明な君主である。
皇紀2572年大正元年壬子1912年

大正時代

大正たいしょう時代における天皇は、大日本帝国憲法だいにっぽんていこくけんぽう下の立憲りっけん君主としての役割を継承しつつ、大正デモクラシーと呼ばれる民本主義みんぽんしゅぎの潮流の中で、その存在様態に変化が見られた。大正天皇は即位当初から病弱であったため、明治めいじ天皇のような親政的しんせいてきな統治スタイルを維持することが困難であった。このため、政治の実権は元老げんろうや政党政治家へとより委ねられる形となり、立憲政治の慣習が定着したのである。吉野作造よしのさくぞうらが提唱した民本主義の影響下で、天皇は国民に親しまれる開かれた皇室の姿を模索したが、病状の悪化に伴い、治世の後半には皇太子こうたいし裕仁親王ひろひとしんのう摂政せっしょうに就任した。この時期、天皇は「君臨くんりんすれども統治とうちせず」というイギリス型の立憲君主像に近づき、政党内閣制の発展を間接的に支える象徴的な権威として機能したのである。

皇紀2572年大正元年壬子1912年

第123代

大正天皇たいしょうてんのう

嘉仁

明治天皇
柳原愛子
貞明皇后
明治系
生誕明治12年1879831
即位大正元年1912730
退位昭和元年19261225
崩御昭和元年19261225
享年48
在位5262日(約14年)
元号大正
多摩陵たまのみささぎ(東京都八王子市)
備考東京とうきょうにて即位し、大正たいじょうデモクラシーと呼ばれる自由闊達な社会風潮の中で、立憲君主制の定着を見守った。第一次世界大戦だいいちじせかいたいせんへの参戦や関東大震災かんとうだいしんさいという国難に直面したが、病弱のため晩年は皇太子こうたいし裕仁親王ひろひとしんのう摂政せっしょうを務めた。
皇紀2586年昭和元年丙寅1926年

昭和時代

昭和しょうわ時代における天皇は、激動の歴史の中で、大日本帝国憲法だいにっぽんていこくけんぽう下の主権者から日本国憲法にほんこくけんぽう下の象徴へと、その地位を劇的に変容させた。昭和天皇は即位当初、統帥権とうすいけんを持つ大元帥だいげんすいとして軍部の台頭や日中にっちゅう戦争、太平洋たいへいよう戦争の荒波に直面した。敗戦という未曾有の事態に際し、天皇は終戦の聖断せいだんを下して国民に和平を告げ、自ら人間宣言にんげんせんげんを行うことで神格化された権威を否定したのである。戦後の占領期を経て、新憲法により「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と定義されると、全国への行幸ぎょうこうを通じて戦後復興に励む国民を鼓舞し、皇室の開かれたイメージを定着させた。この時代の天皇は、国家の主権者として戦争の責任や平和の追求に向き合い続け、高度経済成長を経て国際社会へ復帰する日本の精神的支柱として、六十年を超える長きにわたり君臨し続けたのである。

皇紀2586年昭和元年丙寅1926年

第124代

昭和天皇しょうわてんのう

裕仁

大正天皇
貞明皇后
香淳皇后
明治系
生誕明治34年1901429
即位昭和元年19261225
退位昭和64年198917
崩御昭和64年198917
享年89
在位22660日(約62年)
元号昭和
武蔵野陵むさしののみささぎ(東京都八王子市)
備考東京とうきょうにて即位し、激動の昭和しょうわ時代を歩んだ。第二次世界大戦だいにじせかいたいせんの終結を決断し、戦後は日本国憲法にっぽんこくけんぽうの下で象徴天皇しょうちょうてんのうとして国民の統合に努めた。生物学せいぶつがくの造詣が深く、平和を希求し続けた戦後復興の象徴である。
皇紀2649年昭和64年己巳1989年

平成時代

平成へいせい時代における天皇は、日本国憲法にほんこくけんぽうの下で「象徴しょうちょう」としての在り方を深く追求し、国民に寄り添う公務を確立させた。明仁あきひと天皇は即位にあたり、憲法を遵守し国事行為を行うとともに、象徴にふさわしい主体的な活動を模索したのである。特に、皇后こうごう美智子みちこさまと共に、阪神はんしん淡路あわじ大震災や東日本大震災ひがしにほんだいしんさいなどの被災地を繰り返し訪れ、膝を突いて被災者を励ます姿は、新しい皇室像として国民に広く浸透した。また、沖縄おきなわをはじめとする国内外の戦地を巡る慰霊いれいの旅を続け、平和への強い祈りを示した。さらに、皇太子こうたいし徳仁なるひと親王への継承を見据え、高齢による公務遂行の困難を案じて生前退位せいぜんたいいの意向をにじませるお気持ちを表明した。これにより、特例法とくりれいほうに基づき約二百年ぶりとなる譲位じょういが実現し、激動の昭和から平和を願った三十年の治世を静かに締めくくったのである。

皇紀2649年昭和64年己巳1989年

第125代

上皇じょうこう

明仁

昭和天皇
香淳皇后
上皇后美智子
昭和系
生誕昭和8年19331223
即位昭和64年198917
退位平成31年2019430
崩御--
享年-
在位11071日(約30年)
元号平成
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備考象徴天皇しょうちょうてんのうの在り方を模索し続け、被災地訪問や戦地慰霊を通じて国民に寄り添った。日本国憲法にっぽんこくけんぽうの下、皇室典範こうしつてんぱんの特例法により、光格天皇こうかくてんのう以来、約二百年ぶりとなる譲位じょういを行い、現在は仙洞御所せんとうごしょにて過ごしている。
皇紀2679年平成31年己亥2019年

令和時代

令和れいわ時代における天皇は、憲法けんぽうに規定された「日本国の象徴しょうちょう」としての役割を継承しつつ、現代社会の課題に応じた新たな皇室こうしつの在り方を模索し続けている。徳仁なるひと天皇は、父である上皇じょうこう明仁あきひとさまによる生前退位せいぜんたいいを経て即位し、剣璽等承継けんじとうしょうけいの儀などの伝統的な即位の礼を挙行した。雅子まさこ皇后と共に、みず問題をはじめとする環境保護や国際親善こくさいしんぜんに深く関わり、専門性を活かした独自の公務を展開している。即位直後から新型コロナウイルス感染症かんせんしょうの世界的流行に直面したが、ビデオメッセージやオンラインでの地方行幸ぎょうこうを通じて国民を励まし、困難な時期における精神的支柱としての責務を果たしたのである。また、能登のと半島地震などの被災地支援においても、国民の痛みに寄り添う姿勢を一貫して示している。デジタル化や多様性が進む社会の中で、伝統の継承と現代的な価値観の調和を図り、次代へと繋がる皇室の地平を切り拓いているのである。

皇紀2679年令和元年己亥2019年

第126代

今上天皇きんじょうてんのう

徳仁

上皇
上皇后美智子
皇后雅子
平成系
生誕昭和35年1960223
即位令和元年201951
退位--
崩御--
享年-
在位-日
元号令和
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備考東京とうきょうにて即位し、令和れいわの時代を歩んでいる。イギリスのオックスフォード大学へ留学し、水問題みずもんだいの研究をライフワークとする。皇后こうごう雅子まさこさまと共に、象徴天皇しょうちょうてんのうとして国民の幸せを願い、国際親善や伝統行事の継承に努めている。
皇紀年